2011年05月19日

常磐線はいつ復旧するのか


常磐線はいつ復旧するのか

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福島第一原発から、常磐線の一番近いところで約3km圏内。
原子炉から燃料棒を抜き取り、廃炉までには最低10年間は掛かる見通しですから、常磐線の全通見通しは、放射線量次第ではありますが、まったく立っていないでしょうね。


双葉町とか浪江町とか他に住民が避難した人たちは一体どうなるのだろうか?あまりにもいろいろな問題がありすぎて考えるのも大変である。まず双葉町の人は10キロ圏内だからそう簡単には帰れないだろう。でももし一年であれ二年であれ帰れるのか?そうした見通しがない、それにしてもいつまでも避難しつづけることもできない、その先が一体どうなるのだろうか、双葉町の問題だけではない、常磐線も四倉までは通じたがそこから先は通じない、放射能汚染地域となり交通が閉ざされる。飼っていた牛をはじめとして20キロ圏内の立入禁止区域の生き物は殺処分になった。牛で生活していた人は生活する手段をたたれた。10キロ圏内は何十年も立入禁止区域となり人は住めなくなるだろうという人もいる。双葉町は結局消えてしまうのだろうか?
浪江町も消えてしまうのだろうか、小高町はどうなるんだとかこの先考えるとこの辺は一体どうなってしまうのだろう。いづれにしろ常磐線でも六号線でも簡単には通じない、大動脈がたたれる状態がつづくことは支障が大きすぎる。浜通りと中通りは交流が地理的にしにくいが六号線は国道であり東京と直接通じていた。常磐線も東京とス-パ-ヒタチなどで通じていた。それもたたれてしまう。

そして双葉町とかの歴史をふりかえるともともと相馬藩と磐城藩の境目であり未開の地だった。夜ノ森とは相馬藩主が余の森だとして磐城藩と境を争った所だった。だからこそ明治になって
森を切り開き開墾された所だった。大野とか広野とかあるのはまさに広い原野が広がっていたのである。


1900年(明治33年)農村開発のモデルケースとして新しい村づくりに理想を求めた相馬郡小高町出身の半谷清寿は、夜の森地内の共有原野4万平方メートルと大菅地内の1万2千平方メートル、併せて5万2千平方メートルを入手。
不毛の原野を朝日ヶ原と名付け、開拓にとりくむ。清寿は原野開拓記念に、宅地周辺に「染井吉野」桜300本植樹


半谷清寿まず、父の半谷清寿は安政5年(1858)に相馬藩小高郷大井の郷土の家に生まれ、幕末維新という激動期に育ち、福島の師範学校卒業後、小浜や二本松の小学校で教べんをとるその後、郷里小高に戻り21歳で酒造業を始める。
  明治26年、日本鉄道の磐城線(今の常磐線)の建設が始まると、世情に関心のうすい農民からの土地の買収が次々に行われ、これに義憤を感じた清寿は激しい抗議運動を展開、結果的には新価格での買収交渉が実現したが、反対派の告訴により8ヶ月も監獄生活を送ること
になった。


こういう歴史があった所である。そこが原子力発電でまた街は無人化して荒野に森に帰ってしまうのだろうか?チェルノブリは森におおわれたり原野化して今も立入禁止区域になっている。

双葉の長塚駅は昔の宿場町 その駅名の消えて 思い出語るもあわれかな
大野、夜ノ森 広野は 昔は未開の野なり 夜の森は相馬藩主の余の森なりしと
磐城藩との境をなして 鉄道は道を開きて 一路平へとつき進む
久之浜、波立海岸の岩礁に 白波よせて沖に船 鴎飛びゆく太平洋

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そもそも南相馬市の原町区でも相馬市でも仙台方面と生活で関係が深い。原町区から仙台へは一時間おきとか電車が出ているがいわきの方へは二両くらいの電車であり乗っている人も少ないのである。新地に旧家があり武家であり新地が相馬市と合併しなかったのは伊達氏とのつながりがあったからだという、今でもその旧家は伊達氏とのつながりを強固に主張しているという。そういう歴史的なことが境にはある。夜の森もそういう地帯であり小良が浜(おらがはま)も境界だからおらの浜だと争った地域である。この辺はいわき市と相馬藩だった境目にあった。
それで未開発の地域として積極的に原発誘致した。前の平市に近いと人口が多いからめんどうになる。相馬に近くても同じである。立地的にはいい条件であった。


宮城県山元町の斎藤俊夫町長は17日、河北新報社の取材に対し、亘理駅以南が不通になっているJR常磐線の復旧について、町内では内陸部へ大きく迂回(うかい)するルートによる整備を、JR東日本などに要請する考えを示した。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/05/20110518t13009.htm


いづれにしろ亘理までは常磐線は通じるようになった。そこから相馬まではいつ通じるかわからない。その間に原発はないのだからやがて通じるのだろうか?それも先は長いだろう。交通的にも遮断されている。それよりこの先、移動した人たちは帰れるのかということがある。移動した先で若い人は定着したら確実に人口は減り老人だけの姥捨山のような街になったらますます常磐線でも六号線でも通らず過疎化がすすむ。文明時代から時代が逆戻りしていく感じになる。交通は遮断され原発があるところは昔の余の森に還ってしまうのか?そして不便な江戸時代のような生活を強いられるかもしれない、そこまでいかなくても交通的には過疎地域になってしまう。仙台まで通じれば新幹線で東京まで行けるから仙台まで通じればかなり改善される。
ただそれがいつになるのかわからない、やはりそれぞれの村でも町(街)でも道があって互いに通じて成り立っていた。小高でも浪江でも双葉でも欠けてしまったら鉄道だった利用する人がいなくなるのだから廃れてしまうのである。点々と村があり町があり市があり道があり鉄道があり社会が成り立っていた。途中がぬけることは歯がぬけると同じになってしまうのだ。回りが立入禁止区域になること自体、浜通り全体の破壊だった。その痛手は大きすぎたのである。結局
津波であれ原発事故であれ変わり方が激しいからそれぞれどうなるのだろうかという先が見えない状態に置かれている。



昨日は小便がまた出なくなって大変だった。南相馬市立病院は実際は医療は崩壊している。いろいろな科がなく機能していない、一カ所で応急措置しているだけである。それで相馬市立総合病院に移ったばかりだった。救急医療もできない、救急車呼ばないでタクシ-で行ったら往復9千円もかかった。原町より倍遠いからだ。電車は通らない、車はない、不便になってしまった。鹿島区では田植えもしていないが相馬ではしていた。南相馬市と相馬市では原発事故以来かなりの差がでたのである。南相馬市では学校にも行けないから鹿島区の学校に窮屈な教室で授業を受けている。やはり病気は一番困る。電車がないと車がない人はさらに困る。

相馬市>南相馬市(鹿島区)>南相馬市(原町区)の順に色分けされる。原町区は東電の保証があるからまた違っている。鹿島区はあいまいな区域であり相馬市は東電の保証がない地域と分かれている。常磐線も内陸を通すほかないのだろう。新地とか山下駅(山元町)が意外と海に近かった。その駅が根こそぎ津波でやられた。相馬地方は仙台とのつながりも深い。新地に伊達氏とのつながりがあり相馬市とは合併を拒んだというのもそのためである。相馬市立総合病院には東北大から来ている医者が多いのである。南相馬市立病院では福島医大であり東北大の医者は来ていない、相馬市はより宮城県と関係が深くなっているのだ。今回は地域によってその被害の差があった。30キロ圏から数キロ離れていたのもその一例であり地域によって運不運もあった。30キロ圏外は東電からの保証はどうなるのか、おそらくむずかしい面はあるが農家などは保証されるだろう。他は保証はむずかしいとなるかもしれない、被害を受けたのは30キロ圏内だけではない゛広範囲だからこの距離だけにこだわることはできないのだ。
自分の場合、自分自身も苦しいから他者を助けるということができない、自分のことで精一杯であり余裕がないと他者を助けることができない、実際に一か月後にまた入院になるとしたらそうである。こっちが助けてもらいたいとなるがそれもない、自分自身の問題で精一杯だとなる。

常磐線の復旧は相馬から仙台でもむずかしい。新地から浜吉田駅まで津波が押し寄せていた。新地とか山下駅は壊滅した。
新線を作ると同じであり今と同じル-トでは作れないとか開通の見通しは何もない、つまりこの先開通するかどうかもわからない、
ただパスは30分おきくらいに相馬から亘理まででている。その点は改善した。
原町から相馬までのパスの便は不便である。でも明らかなことはこれからどのくらいになるのか開通の見込みがたたないことを
覚悟してパス利用にするほかない、どうにもならいのだ。

浜吉田駅まで津波が来た
http://musubu.sblo.jp/article/45281722.html

posted by 天華 at 10:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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