2006年03月11日

紫のクロッカス(認知症は同情されにくい)

murasakiha.JPG


春耕や我が畑ありて老婆かな

夕月や蕾ふくらむ白椿

つつがなく公園に憩い春の鳥

アパ-トの老母へ通う冬の鳥


一輪紫のクロッカス

我が家の騒ぎ知らずに
今年も福寿草あまた
黄色のクロッカスまず咲けり
その間に夕べひそかや
一輪の紫のクロッカス咲きい出ぬ
あわれこの花の知らず咲きしを
何故に我を懊悩させしめるは何故ぞ
我が心の休めざるは何故ぞ
夕月の家の間にい出て
今日花はここに静まり咲きぬ


認知症を家族でかかえてから毎日があわただしい、仕事もしていないのにあわただしい。いろいろなことに追われる。肉体の介護ではなく毎日銀行から金をおろすとか年金をもらうとかいうのだが通帳はなくしているし自分でできなくなっている。でもなんとか自分の金を自分で使いたいというのはわかる。それにしても今金をわたしてバッグに入れてもそれを瞬間的に忘れているのだ。これはひどい忘れ方でありその人の身になってみれば大変なことなのだろう。これは目が悪くて見えないとか耳が悪いとか足がなくて歩けないとか体の障害なら理解されやすいのだ。認知症の場合は体ではなく記憶障害だから理解されにくい、金を今わたしたのをしまっても瞬間的に忘れてしまうのだ。こうした世界に住んでいる人は本人にとってみればその不安はわからない、つまり他者には理解しにくい障害なのである。らい病などは顔がゆがめられるからひどいなと傍目で見てすぐにわかるが認知症の障害は記憶障害だからわかりにくいのだ。

認知症になるとバリバリの社長でも一家を切り盛りしていた母親も一転して弱者、障害者になってしまう。子供でもできることができなくなる衝撃がある。だから実社会で社長をやったりいろいろなことができたやり手の人ほど衝撃が大きい、女性でもそうである。いろいろなことが人よりできた人ができなくなるのだ。一転して人生の末期に障害者に転落してしまう恐怖である。そして認知症は他者を盗ったとかいろいろな症状が同情されにくいのである。身体の障害は同情されてもこの記憶障害からくる問題行動はほとほと悩まされて同情されにくいのがこの病気の損なところなのだ。身近に認知症に接してそれがたよくわかったのである。もともといろいろできた人であり頑張り屋であり勝気であったからその衝撃が大きかったのである。そういう人だから認知症になっても社会に適合できなくなっても懸命にがんばっているから応援せねばならないと思うのである。他者はこの病気のことが良くわからないから障害者であってもその障害について良くわからないからそういう気持ちにもならない、特に一番身近な家族が被害を受けるからただやっかいなものと思ってしまうのである。これはただ本質的には記憶障害であり何か他の精神病とはにていても違っている。他の精神病には記憶障害はないのである。脳の記憶する細胞が破壊されることはないのである。

ともかく深山幽谷の神秘の花のように隠れ咲いていた自分がこんな騒動にまきこまれるとは思いもよらなかった。毎日頭ががんがんしてしまう、いろいろ治療のためにつきあって多少は回復した。ただ瞬間的に忘れるとかその他作り話したりして自分の責任を他者のせいにして他者を責めることは変わっていなのである。自分には全く非がないと思っているし自分が悲劇のヒロインのようにして他者を悪者にしているのには聞いている方も病気とはいえ嫌になるのだ。悪いのはすべて他人のせいになるからいやなのだ。いくら病気でもそれを聞いている方にはたまらなくななるから認知症は同情しにくいのである。


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