2007年06月26日

錯覚しやすい陸奥の真野の草原→真野の萱原


錯覚しやすい真野の草原→真野の萱原

原文]陸奥之 真野乃草原 雖遠 面影為而 所見云物乎
[訓読]陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを

まだみねば面影もなしなにしかも真野の萱原つゆみだるらん
-藤原顕朝[続古今])

   吾が勢子は 借廬作らす 草(かや)無くは 小松が下の 草を苅らさね (1/11,間人皇后)


   み吉野の 蜻(あきづ)の小野に 苅る草(かや)の念(おもひ)乱れて 宿(ぬ)る夜しそ多き

(12/3065,読人知らず)

   紅の 浅葉の野良に 苅る草の 束の間も 吾を忘らすな (11/2763,読人知らず)


インタ−ネットで検索すると原文は草原だったのに萱原と出てくるのが多い。草(かや)と言っていたから草原も萱原をイメ−ジするのはわかる。万葉の時代は草(かや)であったがのちに草(かや)は萱になった。かやは萱であり萱は萱場とか屋根をふく萱である。萱はどこにでも繁っているし萱とつく地名が多い。万葉集以後はかやを草ではなく萱として表現している。
 

天にあるやささらの小野に茅草刈り草刈りばかに鶉を立つも 3887

茅草という表現もある。日本語にはクサとカヤを区別していたが漢字が入ってきたときクサとカヤを草にあてたのである。後に草→くさ、萱→かやになったのである。萱は確実に今知っている萱である。万葉以後はだから萱を草と表現していない、古今集でも萱原だし奥の細道でも真野の萱原になっている。
 

真野の萱原(かやはら) 現在の石巻市真野字萱原付近。長谷寺があり、そこに「真野萱原伝説地」の標柱がある
 

ようよう貧しい小家で一夜を明かして、明ければまた知らぬ道を迷い行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などをよそ目に見て

陸奥真野萱原尾花」は「天明七丁巳十一月七日白非英二生ョリ送来ル」とあるという。菅江真澄は天明六年1786)九月十西日に真野宣原を訪ねているので、この時採取したものと推定できる
 


石巻市真野字萱原の地名がいつの時代のものなのか?万葉の時代にさかのぼる地名なら真野の草原に該当するのか?石巻に古代の真野郷は存在していない、古代に存在する萱原なら草原になっているのだ。萱という漢字は万葉以後のものだからである。ただ江戸時代では石巻が真野の草(萱)原となっていたのである。おそらく地名の影響が大きかったのかもしれない、地名的にはぴったりだからである。でも地名にはもともと根拠もないのに地名から勝手に解釈して伝説まで作っていることがあるから要注意である。管江真澄は実際に萱−尾花まで採集して送っている。これは石巻の萱である。これほどまでに真野の萱原は萱として一般化されていた故にその萱まで土産にしようとしたのである。


前にも書いたけれども草(かや)は一字で用いられ一般的には材料として使うカヤなのである。草原(かやはら)と用いられたのは万葉集にはないし萱が一面になびいているという景色を歌にすることはなかった。その後も萱は屋根をふくとか材料としてみていたのであり萱が一面になびいて美しいとか見ていないのだ。茅葺きの屋根を作るのには膨大な萱が必要なのである。実際の生活に欠かせないものとして萱があったのであり美的に鑑賞して美しいとかにはならなかったのだ。ところが人間は過去になると必ず間違った解釈が入ってくる。勝手に想像することができるからみんな詩人になってしまう。地名は実用的なものとしてつけられたのが多いし詩人がつけたのではない、生活者が必要から作り伝えてきたものである。それ故地名には無味乾燥なのが多いのだ。そこに錯覚が生じるのが歴史である。

確かに草原(かやはら)は以前として大きな謎である。真野の草原→真野の萱原としてイメ−ジ化された。これは漢字の作用が大きく働いたのだ。それで今回南相馬市の鹿島区に鹿島町の職員が退職記念に建立した源実朝の歌もやはり草原は萱原になっている。
 

みちのくの真野の萱原かりにだに来ぬ人をのみ待つが苦しさ 源実朝
 

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

これもまず草原を萱原としてイメ−ジされそのイメ−ジに基づいて実朝の歌も作られているのである。一面に萱原なびく辺境の淋しい陸奥の真野に想う人、恋しい人はかりにだも面影にも現れないという地元からの発想をしているのだ。笠女郎は奈良というと遠い世界から真野の草原を面影に見たのだが実朝は逆にみちのく真野に自分が在住するようなものとして歌っている。鎌倉だからその頃みちのくは古代より近い存在にもなっていたともいえる。鎌倉から来た岩松氏は鹿島区では一番古い姓でありその臣下の四天王といわれた人の姓が今日にもつづいている。船で来たことは確かでも鎌倉ではなく陸路を阻まれたため磐城辺りから船で上陸したらしい。これは岩松氏一族の歴史をたどるホ−ムペ−ジに詳しい。

ともかくこの歌も草原が萱原としてイメ−ジされるものとして定着していたからできた歌なのである。でも本当に草原→萱原なのか?これは大きな疑問であることはこれまで考察した通りである。

posted by 老鶯 at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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