2011年04月26日

原町区の病院に(桜も散ってゆく-津波で生まれた無数の物語の重さ)


津波にも残れる松の二本の長くもあれな春の日暮れぬ


原町を離れし人の多しかな松に寄りつつ花見るあわれ


たちまちに花の盛りはすぎにけれ人の命のかくもはかなき


思ほえず津波に死せる人あまた今年の桜を見ずして去りぬ


一瞬に津波に変わる景色かな昨日ある人今日はなしかも


一瞬に津波にのまれ帰らざる人となれるやその無情を誰に訴えむ

八沢浦に残った松の二本など今津波にも負けず残った松が各地に生まれた。今までは松はもともと多いし日本は松の国だった。松に一番親しみを感じる民族だったのである。だから松に関する伝承やら短歌は実に多い。そして今回の津波で松原として意識していたのが七万本の松原の一本だけが残った陸前高田の松とかが注目される。磯部にも一本だけ松が残っていた。それがなんとも心にしみる松なのである。今回の津波で失ったものが実に多い、貴重な松原は失われた。でも残った松が新しい名所になった不思議があるのだ。今回の津波で新しい伝説が各地に生まれた。一瞬のうちに街や村がポンペイ化したのである。そしてつくづく伝説といってもまだ余りにもその被害が生々しい、南相馬市の萱浜で屋根につかまり沖に流されて漂流して助かった人を取材に来たがその人は語りたくないと語らなかったという、やはりそんな簡単に笑って語られることではない重い体験でありだからこそ一人一人が語ることがずっしりと重いものとしてある。なかなかまだ他者が立ち入れることができない重いものを背負ってしまったのである。それでもだからこそその人たちの語ることが一つ一つ重いものとして後世に語られるものとなった。普通だったらそんなことを語りえないし一人一人のことは忘れられてゆくだろう。

例えば漁師仲間がヒデオは死んだよとか簡単に言うけど仲間だった一人が突然津波にのまれたことを語っている。その一言だけでも今は実に生々しいのである。実際に一人の死がそんな簡単に言えないのが普通だからである。普通の世界ではありえない話しでありそれがいたるところで語られているのだ。その事実としての重みがあるからこそ逆手をとってメモリアルパ-クとして残せというのも不謹慎かもしれないがまちがいなく観光的にも成功する、デズニ-ランドとはそのもっている重みが違う。何万人の命が失われたのだからまるで違ったものであり物見遊山とはならない、人々は真剣にその話しを聞くし語る人も語り部として価値ある存在になったのである。普通に生きていたらそうはならないのだ。


原町区で病院にゆくと必ず最近帰ってきて医者に来たという人が実に多い、今日は南相馬市立病院と耳鼻科の医院に行ってきた。耳鼻科の方は一週間前に開いていた。そこで会計のとき「30キロ圏内」ですか?と聞かれた。2、3キロ外ですというと会計どおりの金がとられた。どうも30キロ圏内は診療の金にも配慮されている。保証もあり一所帯百万もらえるとかある。でも30キロから2、3キロでも離れると保証は何もない、放射能の被害なら郡山市とか福島市の方が高いのである。公園で一時間しか遊ぶなという禁止令が出たことでもわかる。風の関係で飯館村を中心として郡山にも福島市にも放射能が多く流れたのである。南相馬市は低いのである。とすると保証も実際は中通りにもされるべきだが全くされない、ここは人口が多いからされないのである。保証の不公平があまことは確かである。同心円の30キロ圏内だけでは被害は決まらない、外で相当被害を受けた地域も多いからである。


原町は店が特にチェ-ン店が全く開いていないから淋しい。病院は開かないと帰ってきても困る人が多いから開いている。でも南相馬市立病院は治療できるようにはなっていない、だから不便でも相馬市立病院に移ることにした。二週間に一回ゆくだけだからなんとかなるだろう。
電車でも行けないから困るがなんとか電動自転車でゆく他ない、原町があのような状態になると不便である。


今年の桜はあわただしく散った、津波だ原発だと毎日過ぎてゆく、今年の桜を見ずに死んだ人も多数である。原発だけは毎日かたずをのんで見ていた。自分の命ともかかわることでなんとかしてくれと祈る気持ちだった。だから科学的なことは苦手でも能力がほとんどなくても必死になってわかろうとした。人間はいくら能力も才能なくても自分の命になると真剣になるものである。放射線のことなど全くわからないにしても必死になってわかろうとした。細胞分裂が活発な子供には影響しやすいとかDNAを放射線が破壊するとか聞いてそういう危険なものかと怖くなった。ともかく注目したのはなんとか放射性物質出るのを抑えてくれということだった。やはり自分の命にかかわれば真剣になるし懸命に人は知ろうとする。そして素人でもそうなるとそうだったのかとわかることはありえる。いづれにしろ原子力がいかに危険で恐ろしいものか、おそらく作った人も専門家も今回の事故で知ったようである。意外と専門家も甘く考えていたし奢りがあった。人間には絶対に慢心が生まれる。それが今回の大津波で打ち砕かれたのである。
原子力事故は人類破滅に導く恐怖があった。そして今もとうなるかわからない、つまりあの原子炉4基が次々に爆発することがありえる、その時本当に関東、東北は死の世界になり住めなくなる、日本という国は滅びるということである。それほど恐ろしいものだったのである。そこまで専門家すら自覚していないのが原子力だったのである。


八沢浦に残った二本の松だけどその土地に住むことは長い時間で見ることになる。一時的な旅人が見るのとは違う。陸前高田に残った松は塩分でだめになからと手当てしたりするからあの松もそうしないと残らないのとか、心配する。長い時間で見て長くあることに意味が出てくるものがある。それでもう50以上になるとその土地と一体化して離れられなくなる。それを離れろというのは余りにも酷なのである。そこに長く住むことで安定があった。それが奪われることに耐えられないのである。それは単に金をもらって他に生活しろと言ってもなかなかできない、日本人は遊牧民じゃないからである。長くあってほしい、ここに故郷にいつまでもとなるのだ。ともかく今回の津波で残された松は明かに一つの名所になったことは確かである。

 

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