2011年04月24日

花の影(避難所にも春が・・・?)

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今日一日行く人なしや花の影

朝静か奥の一軒花の影


被災者にわずかの春の見えにけり


路地裏に紫木蓮や染屋かな


八沢浦松二本の残りけり離れずここに残りけるかな


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八沢浦に松が二本残っていた。陸前高田では約7万本の松林のうち1本だけは津波の猛威を耐え、瓦礫の中で空に向かって立っている。この辺では松は何本かは残っている。磯部には一本しか残らなかったみたいだ。津波の激しいところはやはり松すら残らない、7万本の内一本しか残らないということでもわかる。陸前高田街自体が消滅したから悲惨だった。この辺も被害は大きいのだけど街全部がやられたわけではない、それで今日中村一小の避難所に行ってみた。相馬女学校の方はみんな移動した。そこは南相馬市の人たちがいた。ここには松川浦、原釜の人達が収容されていた。話した人は漁師でありまた漁をはじめると言っていた。放射能なんか気にしないで魚を買う人は買うというのは本当だろう。放射能は気にする人は気にする、子供に影響あることは確かだから子供をもっている人は敏感になる。でも話しして笑っていたということは多少余裕が出てきたせいなのだろうか?漁をはじめる算段がついたせいなのだろうか?人間あまりに極端なことを経験すると笑うほかないのだろうか?それなりに次の生活の準備をしているみたいだ。


あるところで避難所で毎日泣いている女性を写していた。今回の津波と原発事故はそれぞれに負う重荷が違っている。10キロ圏内だったらもう20年は帰れないとかいうのも本気で考えねばならない、立入禁止になった20キロ圏内も同じように住めなくなるのか?20キロから30キロ圏内は住めるのだがいつ避難命令でるかわからない、それで街は正常化していない、南相馬市の原町区は医療が崩壊している。簡単なことはやれても前のように手厚い治療とか検査もできない、それで相馬市の方に移る人もでてきた。原町区では入院治療ができない、それで自分も困っている。子供は原町区では通わすことができないから鹿島区や相馬市に移り通わせる。原発事故では相馬市はそれほど影響されていないのだ。だから今日はチェ-ン店のレストランで食事した。原町区ではチェ-ン店のレストランはどこもやっていない、緊急避難準備地域だといつ避難させられるかわからないとなると店も開けないのだろう。今回の原発事故で悲惨なのはやはり自分の家をもっていても住めなくなった人だろう。だから飯館村は40キロの外なのに悲劇のむらとなってしまった。飯館村も確かに津波で家もなくして死んだ人と比べると死んだ人も家をなくした人もいないが住めなくなるというのは悲惨である。このように今回の津波と原発事故はみんな背負う重荷の度合いが違っている。自分は30キロ圏内から2,3キロしか離れていない゛これによって何か助かったなと思った。でも30キロ圏内だと保証はあるが2,3キロ離れたら保証はない、義援金5万もらったけどそのくらいで終わりになる。


南相馬市でも立入禁止区域の小高区があり緊急非難準備地域があり30キロ圏外もある。でも明かに原発事故が悪化すれば30キロ圏外も避難せねばならないことは確かである。ともかく原発事故でもその被害状況は様々なのである。ただ30キロ圏内で枠を決めたのはそれ以上は保証できないということがあるだろう。ただ30キロ圏外は安全だという感覚にはなるが実際は放射能の分布はまばらなのである。松川浦で魚とって放射能の魚を食べる人がいるのかと思うが漁師も言っていたが買う人は買う、放射能を気にする人は気にするけど気にしない人は気にしない、50才以上になると気にしない人が多いのだ。あと十年後二〇年後では本当にガンになるのかということも定かではないからだ。はっきりいって日本全国で放射能の野菜であれ米であれ魚であれ食べるべきなのである。なぜ福島県だけが放射能で苦しめられるのか?全国が放射能で苦しめばいいのだ。だから放射能入りの食べ物を全国で食べるべきなのである。それが原発をもつ国の責任なのでありそうでなければ原発をやめるべきである。

そもそも原発を作った日立とか東芝の技術者がなぜこの国難の時に原発の事故現場にかけつけないのか?結局放射能が怖くてかかわらない、下請けの作業員にやらせるが高度な技術的なことは作った人しかわからない、それが放射能が怖くて近づかなくなる。安全だと言っていたなら最後に残った五〇人のように命かけてやれ、責任をもてとなる。そうできないなら原発はやめるべきである。原発をもつことは実際は相当な覚悟が必要だった。命懸けになることなのだ。その被害も甚大であり保証しきれないものとなる。そしたら安全のために命懸けでやる必要が出てくる。そうした覚悟もなくただ安全だ安全だと専門家やらマスコミや政府の主導で口封じしてきた。ある人が完全に安全なものはないとっただけでテレビの討論会にも呼ばれなくなった。誰も安全でないとさえ言わせなかった。


一か月半から過ぎて多少落ち着いて来たのだろう。津波や原発事故やら考えるだけで疲れた。普通の平和な生活が失われた。でも春が来ていることは確かである。花も盛りである。それで被災者もわずかの春を見つけつつあることを避難所で知って明るい気持ちになった。避難所でもみんな泣いている人ばかりではない、それなりに希望を見出す人もでてきている。 今回の津波と原発事故は一年くらいたたないと落ち着かない、原発事故はまだ先が見えない、ほとんど手つかずの状態なのである。そしたらどんなことしたって軽く一年は帰れないしそのあともどうなるかわからない、つくづく広島とか長崎の原爆被害者に共感するようになった。10万人とか死んでいるからその悲惨さは今回の事故よりもひどかったが遠いから関心もあまりなかった。人間一旦自分のことになると自分が犠牲者になるとその関心度が全然違ってくる。同じ被害者だという犠牲者にされたという強い意識を持つようになるのだ。

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奄美大島から来ていた
九州からも結構来ている
避難所であったのは福岡からの医療チ-ムだった
奄美大島となると相当遠いから車で大変である。


 

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