2006年03月08日

近間のドライブ(認知症は理屈でわかると安心?)

雪残る山の奥処の初音かな

山陰に残れる雪や家一軒ここに残りて冬を越すかな

山の上は風吹き荒れて残る雪枝も折れなむ春はまだしも

なつかしみ昔の山の道歩む春の日さして病いやさむ



便利屋に頼み車を3時間ばかりかりて近くの世話になっている友達を招いて回ってきた。栃窪から大倉の真野ダムから飯館の山陰の道を回り上萱を通り栃窪にでて帰ってきた。山陰にはまだ雪が残っていて車で行きづらいところがあった。実際家族でドライブとか旅行などしなかった。ここは自分一人で自転車で何回も行った道である。この近辺では知らない道はないから案内した。地元の人でも山の方は関心がないと来ないから知らないのだろう。タクシ-なら知っているが頼んだ所は道を知らなかったから道を案内した。認知症の家族をかかえてからどうしても回復を計るため今まで家族で楽しむ旅行などしたことないがせざるをえなくなったのだ。近隣の人ととの付き合いもなかったが認知症の家族をかかえると付き合ってくれる人は大事になる。なかなかつきあいづらくなるからだ。そうなると地域とか社会での役割もなくなり生きがいとかもなくなり孤立してしまうからよくないのだ。認知症になると特にそうした地域とか社会で排除されるとなかなか生活しにくくなる。だからなんとか協力してくれる人を大事にせねばならなくなる。また地域で認知症の人を受け入れてもらうということも必要になるのだ。これも症状がすすむとむずかしい。今は回復したからそれなりにぎこちなくても適合できているのだ。

ボケる原因として家庭に問題があるとか言われるが確かに自分の家庭は一緒に楽しむ遊ぶということがゼロの家族だった。自分一人では遊んでいても家族全部で遊ぶ楽しむということがない家族だったのだ。だからその原因には納得いくのだがしかしこれがすべてではないと思うし原因は良くわからないのだ。ボケるとは記憶障害でありこれは別に狂ったとか何かわけのわからない病気ではない、今になるとなるほど理屈でも納得いく病気だと思った。記憶障害が起きていろいろ失敗する、失敗することを認めず他者のせいにするのは自分がしたことが記憶されていないのだから一体自分にどんな非があるのだとなり他者を責めることになる。記憶障害からくる様々な問題が理屈的にも納得できるから人間的にもある程度受け入れられるものだとわかったのである。

なぜそうなるのか?それがわからないとしたら人間的につきあうこともできないだろう。こういう理由でこうなるのかとわかると人間は何か安心する。理由がわからない訳のわからない行動は人間を恐怖させるのだ。2+3=5であるがこれを6とか7とか言い張る人がいれば理解できない人となる。認知症はそういうものではない、一見症状は極端に悪いときは全く理解できない人だと思った。でも症状が安定してふりかえると2+3=5の世界ではありそれを6あり7であると言い張るように思えたが実際は違っていた。認知症は記憶障害から様々なやっかいなことをひきおこすが理屈的に全然通じない世界ではない、理屈的にわかるから人間としてつきあえると今のところはなっている。病状が進むとこんなのんきなことを言っていられないのかもしれないが今のところは全然訳のわからない、正常な人間の埒外の人とは違うことがわかったのである。

車だと自然を遮断するのでなかなか俳句とか詩になりにくい、例えば鶯の声を初音を聞いたのだが車の中ではっきり聞こえなかったのである。ただ今日は暴風警報がでるほどの強風であり枝が折れたりして外を歩くこともできなかったが車の中なのでこんな風のなかでも行ける。自転車ならとても行けないのである。ただ自然を感じる度合いはかなり低減されるのである。
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