天に向き泰山木の花開く
町中の畑に三四人夏の夕
老鴬や認知症の世話余裕もて
泰山木の花の特徴は天に向かってまず開く、地上に向かって人に向かって咲くのではない、天に向かって神に向かって咲く・・・・花は必ずしも人に見られるために咲くとは限らない、天に向かって神に向かって咲くことが先ということがある。人もまたまず天なる神に向かって咲く、神を知るということが先にある。そもそもこの世は汚濁の世であることは変わらない、だから我々の視点は地上ではない、天なる神に向かう必要があるのだ。一点の曇りも汚点もない花は天なる神に向かって開くのである。花は天なる神に向かって咲くのが実は一番ふさわしいのである。なぜなら人の世界はどんな人でも汚れているからなのだ。その汚れた人に向かって純潔の花は咲くのはふさわしくないのである。
認知症の世話はかかわり方は継続性が必要だという、今日あった人を忘れても継続的にかかわってつきあってくれるとその人のことはわかるという。なじみの人、昔から知っている人は忘れない、そういう人との継続的かかわりが理想的なのだがそれがむずかしくなるのだ。介護殺人がまたあった。半年でギブアップした。この先介護してゆく自信がないというのはわかる。脳梗塞だったがこれも一〇年とか長すぎるのだ。夫婦二人だと離れることもできなくなる。交代できる人が入ればいいがいなければ自宅介護はつづかない。私の場合、今は余裕あってもこの先ひどくなったら自分もつづかない、一人で二人の世話するようになるかもしれない、介護には人手が必要なのだ。