2011年03月10日

福寿草(余裕なき現代社会の不幸)

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余裕あり石落ち着いて福寿草


福祉関係的な仕事は余裕がある人でないとできない、テレビで保護司のことを取材していたが解説者が言っていたが保護司はボランティアでありなり手が少なくなっているのは余裕ある人が少なくなっているからだろうと言っていたがそういうことは大いにありうる。余裕がないとそういう仕事はしにくいというのも本当である。人間は意外と余裕などどうでもいいとか思っているが大事なものだった。余裕がないということは生活全般に影響するし他人にも影響するし社会そのものにも影響する。社会で犯罪を犯す人はそもそも心に余裕がないのだ。余裕がもてなくなり犯罪を犯すのだ。金に追い詰められたり何か重い荷を背負わされもう余裕がないからこそ自殺とか犯罪になる。現代は豊でもこうして余裕がない人であふれている。そういう人は困った人を思いやることなどできない、自分のことで精一杯であり頭も自分のことしか考えられないのである。そういう人が福祉的な仕事につくことは向いていない、他人の家の中に入る仕事にも向いていないだろう。例えば借金している人とが生活に困窮している人がどうして他人を思いやる福祉的な仕事ができるだろうか?絶えず頭の中が借金をどうしたらいいとか金がなくて明日どうしたらいいのかとかこの先どうしたらいいのとかばかり考えているような人はそもそも他人を思いやる余裕がないのだ。自分のことで精一杯であり他人のことまで思いやる余裕がないのだ。だからかえって福祉的仕事でも犯罪者になる。相手を思いやるよりこっちが金で困っているんだ、相手が馬鹿になっている弱っている老人からだまして金をとってやれとかなってしまう。

心に余裕がないことは犯罪予備軍であることがわかった。不況が長引くとそういう人が増えている。贅沢を覚えた貧乏だからかえって金が欲しい欲しいとなる。昔のように貧乏になることはもうできないからそうなる。今の世の中本当に余裕がない人であふれている。金がなくても余裕があったのはかえって貧乏な江戸時代とか明治時代の人だった。貧しくても助け合い足りないものでもまにあわせていたからである。だから外国から来た人が日本人は貧乏だけど幸せそうな顔をしていると見た。貧乏でも余裕があった。

今はみんな金に追われまるで余裕がない、生活そのものもスピ=ド時代であり早く早くと何でもせかされる。高齢化社会になるとスロ-ライフを言われるようになったのもわかる。都会では横断歩道を高齢者が青信号の間に渡り切れない、それで延長する工夫をするようになった。車社会も高齢化社会のスロ-ライフとは反するものだからそうなる。現代社会はいたるところで余裕がないのだ。余裕をもって生活をするようになっていない、不況になったらなおさらみんな金欠病になり頭の中が金のことしかない人が増えたのである。だから今の世の中まともに余裕をもってつきあえる人はまれだとなる。元来芸術など俳句短歌や絵画にしてもそもそも生活に余裕があるからこそできるものである。生活の余裕から生まれたものであり余りにもこれが金儲けになると余裕がなくなる。芸術でもうてけやろうとかなるとすでにその時点で余裕がなくなっているのだ。売ろう売ろうとするときすでに余裕がなくなっているのだ。一旦商業主義になるとみんなそうなってしまう。だから文化的なものは商業主義になることをなじまないのだ。出版社でも売れるもの出せとか書店でも何で売れないものはただ場所をとるだけだとかなり例えそれが優れたものでも置けない、その点インタ-ネットだと出すのは無料だから余裕をもって出せるのである。別に売れなくてもいいや読んでもらえばいいとなれば気楽なのである。文化的な創造にはそういう余裕が必要なのである。


高齢化社会になると必然的にスロ-ライフになるから横断歩道の信号も長くないと渡り切れない人がでてくる。でも車側からするといらいらするもの、老人はのろいから危険であり邪魔だとなる。つまり車社会はそもそも老人のスロ-ライフと合わないものなのだ。むしろ老人のペ-スのスロ-ライフに合わせるようになると社会も住みやすいものとなる。なぜ今江戸時代への回帰が言われるのか?それは江戸時代が人間的な生活だったからだろう。なぜ籠のようなものが輸送手段になっていたのか?江戸時代だから技術がないからしかたないとなるが外国では馬車が人間を運んでいたし江戸時代でもできないことはなかった。でも何らか制限されたためなのである。戦国時代の延長でわざわざ橋を作らないとか戦略的にもそうなったが便利なものでも制限されていた。今は便利だとなれば無制限に追求される。車が交通事故を起こすから多少制限しようとはならない、別に制限できないことはないのだ。それは民主主義の社会になればみんなが賛成しているのだから制限することに反対するし自動車会社でも反対するからできないのである。制限することができない、制限する思想もない、欲望を制限するという思想も資本主義社会になるとないのだ。欲望の制限のない追求が餓鬼地獄の資本主義の社会である。移動過剰社会もかえって人間の余裕をなくした。


結果として近隣の信頼社会も崩壊した。遠くとのつながりを重視すると貨幣の力が比例して増大してくるのだ。なぜなら遠くから商品を買うことは金が必要になりその金を得るためにますます忙しく働かねばならない、だから文明が余暇をもたらすことにならなかった。みんなますます忙しくなり過労となり余裕のない生活となった。貧乏な江戸時代のとき余裕があり明治以降人々はだんだん余裕がなくなっていった。ただ人間は江戸時代がそうだったように余裕ある生活を貧乏でもできる。だから文明的生活でも余裕ある生活はできる。ただ欲望が肥大化して余裕ある生活を選ばない結果そうなっているのだ。現代は欲望でも何でも何か制限することがない、できない、車も制限することはできない、高速道路でも新幹線でもそんなに早く行くことがいいことなのか、なぜそんなに早く行かねばならないのか。

もし旅だったらゆっくり行った方が楽しい、途中を見て回った方が楽しいからである。結局早いことはいいことだ、スピ-ドも制限できないのが
現代だからである。ただ無制限の速さを追求している。延命治療もただ寿命を伸ばすことがいいからだとなり制限できないのである。何か抑制する制限することができないのが現代なのである。人間はやはりどこかで制限して抑制して生活するとき幸せがあった。何でも無制限になるときかえって不幸になるという教訓がある。

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