2011年03月01日

橲原村と大原村の地想学(トポス)


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橲原村と大原村の地想学(トポス)

隣り合う大原橲原冬の暮


最近原町区の大原に住んでいる人を知ったが大原は鹿島区の橲原村の隣だった。そこは地理的ににた場所にあった。原町のどんづまりendが大原であり橲原だった。でも隣り合うといっても山にさえぎられていたから隣合う村という感覚はなかったろう。最近一本の道路が二つの村を結び合うようにできたから隣の村だったのかという認識が生まれた。つまり道路で結ばれると違った認識が生まれてくる。地理的には空間的に共有する感覚が生まれる。橲原から小山田まで通じていた林道もそうだった。あれは秘密の道のようにも思えた。小山田に通じていると思わなかった。でも江戸時代なら隣の村も実際は遠い村なのである。この辺の伝説で麦搗きを手伝いに来た若者が実は大蛇だったというのはめったに他村と交流しない、人も交流しないからそういう伝説が生まれる。明治になって佐須村と大倉村が民情が違うから合併できなかったというのは今なら考えられないけど昔は大倉から佐須でも草野でも山に閉ざされて遠いからそうなった。今の感覚では近くても昔の感覚だと相当に遠い村になるのだ。人々は村で閉鎖されて暮らしていたのである。隣り合う村という感覚は最近道で結ばれてできたのである。自分の俳句もまさに今の感覚から生まれたものであり過去の感覚では隣り合うということはないのである。


郷土史では村の新旧を知ることが一番大事である。そしてやはり地図を見ることも大事である。グ-グルア-スだと立体的になるから地理から解明されることがある。確かに大原村と橲原村はにているのだ。そこからは阿武隈山脈になり山によってさえぎられる場所なのである。でも江戸時代から村はあった。木材を供給する炭など燃料を供給する場所として山の村は機能して大事だった。発展経路としては鹿島区では小池には寺内には前方後円墳があるから古代から人が住んでいた。古墳が円墳が小池の奥まであるからそれだけ古くから人が住んでいた。橲原村はその頃森林であり人は住んでいない、大原も森林地帯だった。鬱蒼とした森林地帯だった。昼なお暗い森林地帯だった。今でもそういう感覚は残っている。ただ大原は県道が通っているからそういう感覚にはともしい。橲原には残っている。大原村は前田という地名から開拓された順序を書いたけど田とつく地名がそれなりにある。それだけ広い田が開拓された。橲原村にはない、橲原村は森林地帯の山の村だった。米を作るようになったのもかなりあとのことだろう。そんなに広い平坦な土地はないからだ。住んだ戸数も少ないのである。
記録では寛永(1630)頃から住んでいた。記録文書として寛永からはじまっている。


寛永中 秣二五九石
明暦中 秣二二〇石
元禄中秣三三〇石
本田-四八石、新圃(新田)下田

元禄宝永中戸数33- 享保32-安永23-天明22-16-   


戸数としては最初が多くあとで減っている。飢饉の影響もあった。天明で一番減っているからだ。次に50年くらい経て弘化から文久には田も相当増えている。 山はもともと秣(馬草)の供給地としてもあった。田がなても秣の供給地としてあった。どこでも馬を飼っていたから秣は相当量必要だったのである。


発展経路としては金銅製双魚袋金具が発見された前方後円墳がある寺内とそこから波及して古墳がある小池へ村が拡大化してそこから田作りには便利な小山田へ移動した。小山田の奥のどんづまりに隠町とあるのは隠し田であり税金としてとられない田を隠し作っていた。地理的に見ればわかりやいのだ。小池は水に恵まれず稲作に向いていなかった。ただ高台であり湿地帯ではなかったのでここに人が早くから住んでいた。でも稲作が本格化すると向いていないので小山田に移動したのである。小山田村は湿地帯であり水に恵まれていたのだろう。いづれにしろ古墳があるころは古代から人が住み着いていた。その前に縄文時代がありその遺跡は高台に多いだろう。湿地帯だと住めないからだ。田中城は有名だが台田中とあり台になっているところが湿地帯でも住める所だったのである。

「小池村は地の高く水ともしきよ以て耕作甚タ少なし、為に小山田へ出作りする凡そ二十町歩なりとういう、寺内は三塘ありて然も 塘水貯え多し 」(大須賀巡村雑記)

寺内は早くから大きな溜池が作られて水が貯えられていた。そこに前方後円墳が作られたこともわかる。それだけ寺内には人は多く住んでいたことにもなる。
  

地想学(トポス)というのがある。その土地からイメ-ジされる霊感されるものがある。ギリシャでは一番そうした霊感される風光明媚な場所に神殿が建てられた。その場所で霊感を受けたからである。ではその場所になにか神秘的霊感を感じるにはどうするのか?それは機械にたよるとなかなかできない、橲原が森林だったというときある距離を通してそこがそういう霊的な場所だったことをしる。ある場所のもつ感覚は区切られた場所ではない、全体から生まれるから全体の中で地想しなければならない。鹿島の平地を歩み小池の高台を歩み橲原にきてそこが深い森だったことを地想するのである。橲原は鹿島区なら聖なる先祖が眠る場所にふさわしいのだ。人間は死んで葬られる場所はやはり山が向いているのだ。万葉集時代からそうだった。人は山に葬られ神となった、村を守る先祖となった。それは自然の感覚からまさに自然に生まれた感覚なのである。山への信仰は先祖が死んで葬られているということでも聖なるものとなったのである。誰も都会の団地のような小さな代用の墓に墓参りするのも何かしっくりこない、死ねば大きな自然に還る山に還るという方が精神的にも落ち着くのだ。そんなものはアニミズムだとか言うときいかに人間が自然から切り離された機械の部品のようになって死んでいるかの逆の証明でもある。

だから文明人には大いなる死が消失した。自然に回帰する死はない、ただ文明の中の一つの巨大な機械の部品としての死しかない、死も矮小化されてしまったのである。千の風になってとかがもてはやされたのはそうした自然への回帰現象が根強く人間の心の中にあるからだ。

自然から切り離された人間は異形化して異様化して人間ならざるものになってゆく。
そこからは奇怪なものが生まれてくる。アミニズムの世界に生きるのが非科学的となるが不思議なことはあまりにも科学的合理性を追求することも奇怪なものとなってゆく不思議があるのだ。
自然が森が喪失してゆくことは心の中の森も喪失してゆく、神秘的なものが喪失してゆく。そして現代の異常性はあらゆるものが商品化貨幣化される、でも森全体とか大地とか海全体とかのもっているものは神秘的なものであり商品化できない、商品化できるのは森だったら個々の木であり大地だったら一区画ではない、全体の土地であり海だったら売買される個々の魚ではない、海全体である。そうした全体は商品化できないし貨幣化できない、でも自然の価値はその全体から生まれてくるのでありそれなくして実りもない、商品化されるものも生まれないのである。そういう全体の自然への畏敬のようなものが喪失してしまったのが現代文明なのだ。あらゆるものが人間によって文明によってもたらされているという傲慢、錯覚に陥っているのである。常磐高速道も景観の破壊であった。山際を通っているので山の景観の破壊になっている。経済の効率性の追求だけだと景観には全体には価値を感じられないから簡単に破壊されるのである。

posted by 老鶯 at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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