2011年02月22日

春の星(馬鹿正直な大正生まれの女性死ぬ)


春の星(馬鹿正直な大正生まれの女性死ぬ)



健やかに歩むは良しやイヌフグリ


近隣に善き人ありし春の星


川岸を姉は歩みし春となり姉は亡きしも我は歩みぬ


正直な大正生まれの女(ヒト)死にぬ春となりにし死後も見守らむ

近くの姉が認知症になったとき世話になった女性が病院で死んだ。病院に二年間もいた。流動食を食べて二年間も生きていたが力尽きた。これも長かった。もう一人近くの同世代の女性は胃ろうでやはり二年以上生きている。胃ろうのときから苦しい表情だったからあとはわからなくなったがこれも長いと思う。病院に入れるとはなかなか死ねないのだ。母は病院では三食食べていたが家に帰ったら食べたくないと二色くらしか食べない、病院で食べないというので無理して食べていたしリハビリも無理してやっていたのだ。家に来たら自由だから食べたいとき食べ動きたいとき動いている。病院はやはり嫌っている。家が自由だからいいとなる。自分もそうだった。病院がいいということはないのだ。病院は何でも強制される空間なのである。病人は囚人であり牢獄になってしまい看護師でも医者でも獄卒の役目を果たす、延命治療はそうした残酷な面があるのだ。
その世話になった人は姉が認知症になったことを知っていた。幼なじみでも長年つきあった人でも認知症になった途端人はよりつかなくなった。もともと交際好きな人だったけど誰も行くところがなかったし来なかった。その人だけは嫌がらずに受け入れていたのである。でも認知症になったこと、馬鹿になったことを知っていた、でもかわいそうだなとつきあってくれた。普通認知症になるとそうは思わない、馬鹿にしたりよりつかなくなるのだ。その人は学もないしかえってしゃべることがわからず馬鹿のように見られていた。実際に馬鹿がつく女性だったのだ。馬鹿正直な女性だった。そして義理人情に厚い女性、義理堅い女性だった。10万くらい貸しても少しづつでも必ず返してしいた。今は何百万貸しても返さなくてもいい、借金返さないものだとさえ思っている。そういう義理堅い人はめずらしい。そういう人自体めずらしい、同世代でもみんなそういう人ではない、ただ八〇以上の人だとそういう人がまだいたということである。自分自身もこの人に注目していないしそんなに関心などもっていなかった。自分は近隣の人など良く見ていなかった。しかし姉が認知症になって困って世話になったとき助けられたのでこの女性だけは注目したのである。他の人も別にこの女性のことに注目していない、ただ自分はその時からこの女性は正直に馬鹿がつくようないい性格の女性だったとつくづく思う。そういう人が今や本当にいないからだ。づけづけ金だけを要求して借金しては払わない、あげくのはては犯罪してまで金を得ようとするとかそんな人しかいないというときこの女性にはかえって感心せざるをえなくなった。

馬鹿がつくような人は世間的には確かに馬鹿正直だから嘘もつかず損している。
馬鹿をつくような人は世をわたるには損をする。でも馬鹿だから嘘はつけないのである。それは世間的に馬鹿だとなり文字通り馬鹿にされる。しかし道徳的に見たらこうして嘘もつかず馬鹿になって生きることはなかなかできない、馬鹿だからこそできることでもあった。その人は別に道徳を意識してそうしたのではない、そういう性格、気質だったのである。日本人には明治の頃までそういう馬鹿がつく人がいた。義理人情など今はまさに功利的な金勘定しか頭にない人ばかりの時代になると死語にもなっている。でもそういう時代もあり江戸時代はさらに貧乏でもそういう人たちがいたのである。そういう人たちをじかに知らなくなって忘れられてしまったのである。どこをみても金が欲しい欲しいという人たちではない、職人気質でも金よりその仕事一筋を馬鹿になっても貫くことを誇りにしていた人がいたのである。そういう人をじかに目にすることがなくなったから忘れられてしまったのだ。

でもそういうふうに馬鹿がつくように生きていた人は価値ある人であった。もちろんその価値を認めているのは自分くらいである。でも馬鹿正直に生きてそのまま天に昇った。そして今ようやく春がきて正直の星となって輝いているかもしれない、輝いて地上を見ているかもしれない、
人間は死んだらそのあとは何にも関係ないようにみているけど人間は死んだ後もその人となりが影響してくる。そういう正直に生きた人はやはり死ねば大げさかもしれないが正直の神のようになっている。正直という徳が死後も生者に影響を及ぼす、子孫にも影響を及ぼす、一方で犯罪者や悪徳を積んだ人はそれも子孫に影響してくる。悪とか善が自分だけのように思っているけどやはり子孫に必ず影響してくる。具体的には孫の代まで影響するというとき思うとき簡単に悪徳に生きることはできないはずである。でも悪を成すにしても罪を犯すにしても自分だけのことだと思っている。それが違っている。結局悪であれ善であれ何であれ一人だけで終わることはない、必ず回りに影響せざるをえないのである。自分だけ完結することなどないのだ。善も子孫に影響する。いい先祖をもてば子孫もいいとなる。全部はそうでないにしろ一般的にそうなりやすいことはある。人間はいくら孤立して生きていようが世間と離れて生きようとしても一人で終わることがないのである。普通近くでもあの人も死んだかくらいにしか思わないがこの女性のことは忘れられないだろう。それは明かに死後も影響してくるのだ。

歩むことかできるだけで喜びになる時がくるかもしれない、そういう恐怖を病気であじわった。今でも普通でないから歩けることは喜びなのだと思う、イヌフグリという名前はいやだが犬が歩くからなのか、犬フグリとなるとか、それはともかく歩くことができなくなることは人間の基本的な生きる力を奪われるから悲惨である。近隣に一人善き人があったとなる。今はないにしろあったというだけで励ましであり慰めになるのだ。人間は死後も確実に何らか生者に影響してくるのだ。死んだからまるっきり何も関係ないとはならない、姉が死んでいつも歩いていた川岸の道を歩いていると思い出すしかつて故人の歩んだ道をそのあとの人も歩んでいるのである。それが人間の生なのである。そこが動物と違う人間の生である。今天に昇ったその人は天から地上を見ている。そういうことは確実にあるのだ。死んだら何もなくなることはない、何か継続するものが必ずあるのだ。そうでなければそもそも人間に歴史など存在しなくなっていたからである。何か継続するものがあるからこそ人間には歴史があるからだ。
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