2011年02月19日

春来る(原町の墓所による)

hakanamaeee12.jpg 


新田川そそぐ支流や春来る


春の日や石落ち着きて家新し


sunny beam in spring
settled stones
in the garden
a new house


梅香り知られざる墓ここに暮る


戒名にその人知らる春の暮

雲雀が原から公園の方に入りすぐに墓地があった。あの辺は古いところではないだろう。墓地を見るとき江戸時代のがあるとここは古い土地だと認識する。明治以降だけだとそこは明治になってから昭和でも開拓された新しい村だとなる。そうすると興味が薄れる。郷土史研究の基本は村の新旧を最初に知ることにある。古いと思ったところが意外と新しい場合があるのだ。
萱浜は江戸時代からの記録があるからそれなりに古い、海に広がる平地だから土地が確保できるからそうなった。山間だと開拓するにも不便だともなる。ただどこも湿地帯でありそれを克服せねばならないからいちがいに平地がいいとはならない、その墓には陸軍兵長や二〇人分隊長とか海軍上等兵とか刻まれていた。何かこれも色あせた感じがする。陸軍の兵長の墓は良くみかけるけど海軍が意外と少ない、


つまり、貧しい東北からは数多くの若者が志願して軍人になり、日本陸軍の中核部隊となっており、仕事のある関西などでは徴兵で兵隊なった者が多いですから、当然戦闘では弱かったのです。


九州の兵隊は勇猛果敢、(2)東北の兵隊は黙々として粘り強い というイメージがあり、前の大戦では実際に強かったわけですが、


アメリカでもイラクを責めるときアメリカ人として認められるとあえて若者が参加した。また貧乏な人が多いから金になると参加したことはにて
いる。東北人は軍人に性格的に向いていたのだろう。大阪人は商売が先だし黙々と上の命令に従わないということもあったのかもしれない、東北人は権威に弱いという指摘がある。天皇が行幸したりするとそれで権威づけたりする。今でも東北人の負の部分が生きている。ただこの負の部分も見方では誠実だとか一本気だとかいい面としてとらえることもできる。そもそも信長や秀吉のような人は伊達政宗をのぞいて出にくい、東北では家康的な人となってしまうだろう。東北人は集団化組織化するのには向いた性格なのだろう。個性を主張するようなことはしない、型にはまる性格だからである。


戒名に温厚・・・翁とか書いてあった。戒名からその人ととなりを多少でも知れればいいがほとんどわかりにくい、戒名は別に個々人でも作れる。むしろ親しい人はその人となりを知っている作りやすいのである。この人は忍耐強い人だったから忍性大姉とかなる。墓は個々人の墓からはじまり家の墓になったのは明治以降である。だから個人墓は江戸時代の墓を受け継いでいるのであり家の墓は明治以降新しいものなのだ。夫婦墓も江戸時代にはあったが家の墓はなかったとい不思議があるのだ。だから今家の墓にこだわるのも歴史的に不自然だともなる。


今日は新田川の支流をさかのぼりイオンに行き六号線に出た。新しい住宅街があり外観はきれいなのだが建売住宅は長持ちはしない、頑丈には作られていないのだ。いい庭も造っているのは少ない、庭に金がかけられないのだ。外観はきれいでも安上がりの家になっているのだ。でも家がある人はいい方だろう。今日は春の光だったけど夕方になると寒くなる。自転車だと体が冷えてしまう、なかなか遠出はできないし暗くなるまで帰るとなるとまた遠出はできない、でも運動できたからいいというほかないのだ。

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