2011年02月17日

思考する根元にその国独自の言葉がある(言葉は民族の魂・・・)


思考する根元にその国独自の言葉がある(言葉は民族の魂・・・)

言葉から作られる思考がある。日本人は日本語で考えるから日本人的思考になる。日本語は歴史的に作られてきた。確かに万葉集時代に漢語が入ってきた混乱したが同化して日本語が成立した。まるっきり漢語化しないものとして日本人の思考が根底に残されたのである。もし漢字一色になったら日本人的思考は喪失していたかもしれない、それほど言葉の影響は大きいのである。俳句はその半分以上が季語によってできあがっている。季語なしではなりたたない、その季語があってこその文学でありその季語は日本の風土と歴史が一体となって作られてきた。だから俳句そのものより季語そのものの意味の背景が日本の文化に根ざしているから季語のもっている意味が広く大きいから短くても成り立っている。花といえば桜を意味しているのも日本的である。ヨ-ロッパだったら花とえいば薔薇であり教会の薔薇窓は有名である。花として一番イメ-ジするものは国によって違っているのだ。南国だとハイビスカスとかがイメ-ジされる。中国では牡丹が国花となっているのも中国をイメ-ジするとき牡丹が一番イメ-ジされる花になるからである。俳句の季語はそのように日本の文化に深く根ざしたものであり外国ではなかなか理解しにくいものなのだ。言葉はもともとそういうものだった。単なる数学的記号ではない、文化的精神性が自ずと付与されている。あわれ・・・というとき日本人なら人間だけではない万物へのあわれを使う、モノと人との区別はない、これは多分に仏教思想からもきている。草木も成仏するとかの思想は西欧にないだろう。中国と日本は同じ漢字を使っているから思想も似通っていると考えるが実際は中国と日本は全く違ったものである。同じ漢字を使っていてもそうなのである。


英語と自由政治の誕生
http://akizukiseijin.wordpress.com/category/%E6%94%BF%E6%B2%BB/page/2/


ここのプログでイギリスの英語とカナダの英語とアメリカの英語は違っているという指摘は面白い。これはイギリスに留学までしているのだから訴えるものがある。この人はほとんど英語で読書して思考してきたからである。アメリカの英語は浅薄だ、深みがないという、イギリスの英語は歴史的背景が常に語られ深みがあるという、クイ-ンズイングリッシュなどあるから確かにそうなのだろう。カナダの英語はそうした歴史的なものと現代的なものがミックスされて深みがあるという、アメリカ英語にはそれがないという、おそらくこの区別は英語を勉強するものにはつかない、同じ英語だと思ってしまうからである。実際に漢字でも日本人の漢字を中国の漢字と同一化しやすい、でも明治以降に作られた西欧文化を理解するために漢字化したものが数多く日本語の漢字にはある。その漢字が中国に入っていることでもわかる。中国は遅れて西欧化したからそうなっているのだ。これをみても言葉が単なる数学のような記号でないことがわかる。その中にはその国の歴史とか文化があって言葉もありうるのだ。その点韓国のハングルは数学的記号のように見えるのだ。漢字がむずかしいから庶民でもわかるようにハングルになったのはわかるが何か数学的記号のように見えてしまう。音だけだったら言葉の深みを感じなくなる。日本人も中国人も漢字を視覚的にみて頭脳が作用していることはまちがいないからだ。ハングルだと漢字のように作用しない、英語も表音文字だがそれでさえイギリスとカナダとアメリカでは違っている。アメリカは歴史もない、思想も浅薄でありプラグマテズムとかビジネス中心の思考、金儲けが第一とされた思考になっているからそうなる。ヨ-ロッパは歴史的思考に基づくからアメリカとは違っている。同じ英語でもそのように違ってくるのが言葉なのである。


このように自国の言葉を否定することは自国の歴史や文化を否定することにつながるから危険なことなのである。英語の方が国際的にはいい、グロ-バル化の競争に勝つには英語を公用語にした方がいいとまでなる。これは自国の歴史文化を否定することにつながっているのだ。
それはとりもなおさず日本人が日本人でなくなることに通じているのだ。つまり外国の文化を理解するにはその国の言葉を理解しないと深くは理解できないように言葉は単なる記号でないからそうなっている。科学の世界だと数学が万国共通のような言葉になるが文化となるとそうはいかない、その一つの例が季語を理解しないと俳句がわからないということにある。本居宣長が大和言葉と漢語を分けて日本人の根元にせまろうとしたのもそのためである。大和言葉に日本人たる所以を見いだそうとしたからである。人間は言葉があって思考している存在である。

はじめに言葉ありき・・・というごとく言葉があるからこそ思考できる。その言葉もそれぞれの国で長い時間をかけて歴史的に作られた言葉なのである。イギリス英語は深みがあるというときそれだけの歴史的背景があるからそうなっている。すでにKINGというだけで歴代の王朝を思い浮かべるだろう。アメリカでは王様はいない、リンカ-ンが初代大統領のように庶民からはじまっているからである。その時点ではじめから国の成り立ちが根本的に違っているのだ。日本で明治以降も天皇を中心に据えたのはそういう長い歴史の継続があったから善し悪しは別としてそうなったのである。アメリカのうよな国だと何もない広大な世界から一からはじめる世界だから歴史を考える必要がない利点もあった。あまりにも広大な土地に原初の人間のように置かれたのである。そこにはイギリスのような歴史的思考が働かない、荒野がありそこに原初の人間のようにほうりだされたのである。ホイットマンの詩はそうした原初の人間のような詩になっていることでもわかる。


ともかく書くということも言葉を通じて成される、言葉が自動的に思考しているのではないかとさえ思うときがあるのはその国の言葉があって思考できていることの証明である。文章を書くということはそういう点で自己の能力を越えて作用することがある。そこに言葉の不思議があるのだ。言葉は人間より人間の一能力より大きな神のような力を持っているという証拠でもあるのだ。
だからこそそれぞれの国の言葉を否定することは民族の魂をも滅ぼすことになる。アイヌ民族は言葉の喪失で滅びたし弱小民族の言葉は滅びてしまった。そしてアイヌ語が日本語としてとり入れたものは少ないように思う。それはアイヌから文化を吸収するものがなかったからだともなる。漢字や英語でも日本語化しているのは文化としてとり入れるものがあったからである。言葉は単なる記号ではない、その背後に長い歴史があり風土や文化があり言葉化しているからそうなるのだ。その一番いい例が俳句の基となる季語が如実に示しているのである。

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