根岸郊外二句
竹たてて冬菜を囲む畠かな 子規
この道や竹に冬菜に何もなし
俳句は分類すると類似俳句が結構あるだろう。これもかなりにている。根岸郊外で上野の近くにこんな光景があること自体今では信じられない、「汽車過ぐるあとを根岸の夜ぞ長き-子規」これもそうした淋しい静かな上野だからこそできた。上野がそんなに淋しい所だったのかとなる。子規の住んだ家が保存されていても今はラブホテルの中にあり全然風情がない、興ざめした。第一冬菜を題材にしていること自体想像できない、そんな畠があったこと自体が東京からは想像できない、松山辺りならまだ想像できる。城の近くを牛が歩いていた。そういう江戸時代でも想像できるが東京は想像できない、子規の句も写生でありとりたててめずらしくもないがやはり竹がここに出てきたのは一致している。自分が何もなしとしたのは写生になっていないがこの道は何度も通っている道である。上野で冬菜が俳句にできる時代があった。その変わり方はあまりにも激しすぎたのである。子規庵で風流を感じることはありえない、回りがラブホテル街でありそんなところにあること自体そぐわないからだ。冬菜はやはり田舎でこそふさわしいものだろう。ともかく俳句は類似俳句がありそれを分類して鑑賞すると面白い。これも同じ発想で作っていると共感するからだ。
春風や道標元禄四年なり 碧梧桐
葛尾(かつろうに)夏草埋もる元禄の碑
http://musubu.sblo.jp/article/15958029.html
これは元禄ということ類似俳句である。元禄というと華やかな感じがする。ちょうど芭蕉の時代だった。奥の細道も元禄時代に来ている。一方で山深い葛尾(かつろう)村の落合にきて夏草に埋もれる碑を発見した。それが元禄だった。碑や墓をずいぶん見たが元禄時代は見ていなかった。それが葛尾(かつろう)村にあったから不思議だった。明暦はもっと前でありこの時代検地があってその記念にしるされたものか知れない、江戸時代にもいろいろ年号があり時代の雰囲気があったのだろう。明治以降は「降る雪や明治は遠くなりにけり・・・」で一時代を作ったがその後大正生まれとかなると短いし一時代をみることがむずかしくなる。さらに昭和になると戦前と戦後に別れ時代はまるっきり違っているからこうした年号は無理になっているのかもしれない、やはり西暦の方が世界がどうなっていたかとかグロ-バルになっているから日本だけの年号はあわなくなってしまったのかもしれない、元禄は確かに特別なものがあった。元禄時代は明治時代のようなものだったかもしれない、戦乱も収まり華やかな江戸の文化が開花した時代だった。でも東北ではそんな文化は花開かない、伊達政宗が伊達ものとして華やかに装ったのはかえって貧乏だから背伸び死して無理していたというのは納得がいく、本当に江戸のように栄えたからそうなったのではなかったのである。東北は元禄でも夏草に元禄の碑が埋もれていた感覚である。
類似俳句は他にも相当ありそこから見えてくるものが面白い。これは俳句が季語を通じて分類されるように類似俳句が多くなる文学だからで
ある。
寒さ(芭蕉と類想俳句)
http://musubu2.sblo.jp/article/35125995.html