2011年02月14日

動機が見えない目黒老夫妻殺傷事件の謎 (人間は作られた嘘の話でも信じやすい)


動機が見えない目黒老夫妻殺傷事件の謎
(人間は作られた嘘の話でも信じやすい)

この事件は謎が深い。


捜査関係者によると、右脇腹から腹に向かって刺された傷が肝臓まで達し、致命傷となった。倒れた大原さんが、逃れようと身をよじって半身になったところで、ほぼ真上から刺された可能性が高いという。血は比較的低い位置を中心に飛び散り、倒れた状態で刺された疑いを裏付ける。



確実に殺すためにここまでした。生半可に生かすことを許さなかった。最初から確実に殺すことが目的だったのである。あわてたりしたらここまではしないだろう。そういう冷静さと残酷さをもちあわせていた。下見もしていた。中目黒の次が田園調布だから田園調布がわからないということはなかった。長年東京に住んでいたから東京にも詳しかった。でもいわき市に住んでいるのをみている人はそんな人にはまるで見えない、趣味は自宅での家庭菜園でこんな事件を起こすような人にはまるで見えない、金に困っていた様子もない、でもいわき市には引っ越してきて住んだのだからその前に何をしていたのか東京暮らしが長いとするとその間に何かあって被害者との接点があったのかもしれない、それともヒットマンだったという、誰かに頼まれて組織に依頼されて殺人を請け負ったという説も有力である。何か殺す理由があって殺した。その動機は不明でも必ずある。若いなら通り魔事件ということもあった。殺してみたいと殺した若い人がいたからである。これは65才にもなっているのだからそうした殺人とは違う。明確な目的があり動機がある殺人である。推理小説では動機の必然性が問題になる。殺人となると相当深い恨みがないと動機の必然性から犯人をわりだすことはできない、ただ殺人でも金にからんで簡単に殺すことはあるからいちがいには言えない、この場合は金が目的ではなかった。だから何かそれ以外の動機があった。その動機が全く見えないから謎が深いとなる。


それにしても人間は作られた嘘の物語でも信じやすいことがある。それを図らずも今回自分が証明した。韓国に娘が入院して困っているから金欲しくて殺したというのは全くの嘘だった。娘は日本にいるし金目あての殺人ではなかった。でもそれが新聞で流されてそんな理由があったのか、美談にさえ思わせるから人間は嘘でも作られた物語を信じやすいことが自ら証明した。歴史でもそうした無数の物語があり作られた物語を信じている。うば捨て物語は親孝行を奨励するために作られた物語だけどみんな信じる結果になった。そういう歴史的事実ではないものを特に歴史をドラマ化して見るようになってから多くなった。歴史は創作されたドラマとは違うのである。だから歴史は歪曲されたものとなり事の真実を見極める力が弱くなってしまったのである。すでに過去は事実であることを証明すること自体が大変な作業である。だからかえって創作された歴史的事実でないものでも信じるようになってしまうのである。


いづれにしろ最初から計画的犯行だった。下見もしていたし逃走経路も計画していた。高速バスの予約すらしていたからだ。いわき市に逃げればわからないと思ったのかもしれない、ところが監視カメラに写されていてそれが命取りになった。今はどこにでも監視カメラが設置されているから犯罪の抑止力になっているがプライバシ-も奪われている問題がある。でも今回は監視カメラで犯人が割り出された。いわき市だと東京に行くにも逃走するのには距離的にいい場所だった。なぜいわき市に住むようになったのか?田舎だと5万5千円であれだけ大きい家に住めるのである。東京なら一間になってしまうからその差は大きいのだ。この事件の謎は65才にもなってそんな危険なことをしなければならなかったかという謎である。ただこの年になるとかえってもう先がないということで大きなことをすることはありかうる、最後の賭けにでることはありうるのだ。とにかく娘の病気のためというのは嘘であり借金のためにしてもそこまでする必要はないし実際は金目的ではなかったのである。となると何か過去の恨みなのか、組織や誰かから頼まれた殺人なのかになる。直接知っている人でないと組織や誰かに頼まれたかとなる。では頼んだ組織や人は誰なのかとなる。そして何のためなのか謎が深い。


これは動機が見えないから謎なのである。金目的でないとしたら何の動機があったのかとなる。65才ともなると動機なき殺人はありえないからだ。ドラマでもこの人はひどい人だから殺されてもしかたないとみる。動機の必然性が明確なのである。だから動機から犯人を追い詰めてゆくがこの場合は最初から動機が全く見えないから五里霧中の状態から出発することになる。霧が深い、何を手さぐりにしていいか不明だから迷うことになるし犯罪者の嘘の発言でもそれが唯一の手がかりだとなるとその話を信じてしまったのである。何か外から見て客観的にみえるものがないから犯人の作り話を信じてしまったということもあった。客観的証拠というときやはり歴史でもそうだが事実として証明されることが必要なのである。史実かどうかが問題になる。それは郷土史とも関係しているのだ。推理小説から事実をみるより事実から推理小説をみる作業が必要なのである。推理小説だって事実から作られているからである。
「事実は小説より奇なり」というとき本当である。いくらでもこんなことがありうるのかという奇怪な事実が次々にでてくる。今回の事件だって謎ばかりなのである。



うば捨て山伝説は作られたものだった
http://q.hatena.ne.jp/1129508302

posted by 老鶯 at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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