2011年02月04日

立春の連句 (日本人は大和言葉を根幹として成り立つ)


立春の連句
(日本人は大和言葉を根幹として成り立つ)

天地(あめつち)に四肢を伸ばしぬ春の風


天地の広きを望み春来る


春来る天地に湧きぬ力かな


春来る天地にひびく命かな


鳴動し日本列島年明けぬ


日本国装い新た春来る


みちのくの眠りを覚ます東風の吹く


火を噴きぬ九州の山や年明けぬ

 


推古天皇一五年春に詔(みことのり)を布告され・・


朕は聞く、むかし、我が皇祖(みおや)の天皇等(たち)の世を帝(おさ)めたまへる、天にせせくまり地にぬきあしして、あつく神祇を礼い、周(あまね)く山川を祠(まつ)りて、幽(はる)かに乾坤(あめつち)に通わす。是れを以て、陰陽開け和らぎて、造化(つくること)共に調(ととの)ふ。今、
朕が世に当たりて、神祇を祭祀ふこと、豈に怠りあらむや、故に群臣ともに為に心をつくして宜しく神祇を身拝(みやまいま)つるべし


日本人の日本人たる所以は何なのか?その根本に大和言葉があることはまちがいない、日本語はどこからきたのか不明である。韓国語と似ていると言ってもほんのわずかであり発音もほとんど違っている。日本語はそもそもいくら解明しようとしてもどこから来たのが謎でありそれが日本の起源を考える一番の不思議なのである。日本語は中国から漢字が入ってきたとき二つの言葉が融合した。その起源はすでに遠いから二つの言葉は本来相当に別々のものでありその観念も違っていた。そうした苦労と混乱がこうした文章に残されているのである。万葉集も漢字で記したときそうなった。今では意識せず使っている大和言葉と中国の言葉は実際は全く別々なものだった。だから漢字に大和言葉のふりがなをふっている。天地はアメツチであり乾坤もアメツチである。天地(テンチ)と乾坤(ケンコン)は中国語の発音である。アメツチが大和言葉の発音である。本居宣長が大和言葉の起源をたずね大和心と唐心を区別したことでもわかるように日本人を知るためには日本語の再吟味が必要なのである。

命(いのち)を生命と漢語で言うのとは相当違ったものでありそれをもう一度再考すると日本人の心が漢語が入る前の大和言葉にあることがわかるのだ。命はミコトともあてている。詔(みことのり)は今のような政治的政策ではない、天地からたまわる命に直結していたのである。ともかく日頃何気なく意識して使っている大和言葉は日本人を日本人たらしめているものなのだ。

春は張るであり天地に張るである。実際に体の血流が盛んになり張るとなり体自体変わってくるとも思える。体も自然のリズムに則って活動しているのだ。冬(ふゆ)がふゆるであるというのは冬の間は冬眠して英気を安なう季節、春へのふやす季節の準備だからである。これも漢語にすると春がシュンと発音するときそれは漢語であり日本語ではない外国語を使っているのである。漢語にしたとき大和言葉本来相当違った言葉でありそれを一致させようとしたとき大混乱があった。それを実際は今でも引きづっているのである。安らかが安心となるときかなり違った感覚になる。和らぐ(やわらぐ)とあるが平和だとするとまた違ったものになる。だから日本人が心が安らかになるといえばしっくりするが心が平和だとか言うとしっくりこない、安心というのも日本語とは違った感覚の漢語なのである。新年はあらたまであり魂が改(あらた)まるから来ている。魂にしても霊魂とタマシイというのは相当違った感覚になる。つまり漢語と日本語は本来英語と同じ様に別々の言葉だったのである。言葉が違うことはその言い表す観念もそもそも違っていたのである。だから大和言葉に大和心があり大和の精神があるということになる。平和というときかえって英語のpeaceがふさわしく感じられたり英語と漢語がしっくりいくものがある。ただ平和が漢語ではない、明治以降日本人が作った漢字も相当あるからまた混乱してくるのである。


俳句にしてもこれは日本人のみが本当に理解できるものであり外国人には理解しにくい、これを中国語でも英語でも翻訳すると実につまらないしこれがどうして文学になるのかと外国人は不思議に思うだろう。それは季語一つ一つに日本の風土、季節を凝縮したものがあり日本独特のものだから理解しにくいのである。これは外国でもヨ-ロッパの文化はその地を踏まないと理解しにくいのと同じである。前にもヨ-ロッパの都市を歩くだけで都市が建築そのものでありシステム的にできているということを理屈なしに実感する。日本では理解しがたいものが大陸的に養われた歴史と文化がある。そういうものは風土と歴史が一体となり時間の中で育まれ作られてきたものだからその地を踏むと理屈なしで実感するのである。だから日本の文化も季語をしるためには一年間くらい住んでみなければ理解できないのである。


御民吾(われ)生ける験(しるし)り天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく(巻6-996)


宇宙、天地、自然の律動とともに律動している存在であるという自覚こそが「生ける験(しるし)」である。
今や人間はどこでも文明化して機械化した人間になっている。天地のリズムから離れて生活しているロボット人間と化している。天地を感じることがないということは人間は異様となっている。自然の奇形児化してしまったのが文明人なのである。機械化して文明化が極端化した結果、二千年前の老子がすでに警告したように文明化は人間を人間ならざるものにしたのである。

天地のリズムの中に生きることこそ本当に生きることなのである。だから都会的生活は生きることにはならない、一見そこに栄があるようでない、天地から離れた栄は本当の栄ではない、日本の自然と一体となった栄こそ本当の栄である。天皇は権力者の帝王ではなかった。日本の自然の祭祀者であり日本の自然を言祝ぐものだった。詩人もまた日本の自然を言祝ぐものなのである。詩人はもともと祭祀者だったのである。ただ今やそうした詩人はいない、結局現代文明から離れないと今や真実は見えなくなっている。アウトサイダ-となり文明を見ないと今の文明が何なのか見えないのである。それは自然から離れた奇形だということである。当然人間も奇形化してしまったのである。


まあ、なんとか病気になったけど普通に動ける、健康でいられる。やはり人間は健康でないと健やかでないと詩も病的になる。そして病的なものが文明では普通のものとしてもてはやされる。そういう不健康な老人ばかりと接していたし今も寝たきりになっている人をかかえているから同じなのだが自分が病気になっても普通に動けたということそしてやはり春になって動いたら力が湧いてきたことはうれしいことである。ただ今年も本当に早めに暗くなる前に帰らねばならないとなると外出することが近くでもできない、そういうことは考えられないことだったし実際にそういうことが五年間つづいているのだ。それが今年も自分の最大の問題なのである。

posted by 老鶯 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論
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