2011年02月02日

冬菜(写生俳句の追求-シンプルなものに真実がある)

fuyuend11122.jpg

この道や竹に冬菜に何もなし


手水鉢打ち凍りけりジョウビタキ庭に来たり去る朝の清しき

この句も写生そのものかもしれない、一見すればつまらない、要するにこの道を何度も通っている。余りにも見慣れた変化のない道である。それでも今日気付いたのである。農家の前に冬菜があり竹の茂る農家があると・・・それはあまりにも当たり前の光景だった。農家といっても六号線の近くだから今は農家らしい農家とは言えない、回りが田んぼであり畑になっていると農家と思ってしまうが今は農業だけをしている農家は少ない、昔ならみんな農家といえば農業だけが仕事だった。ともかく毎日見ている余りにもありふれた光景には飽きるからたいがい自分の住んでいるところは嫌になる。自分もだから旅ばかりしていたのである。つまり何にもない・・・それが田舎だとなる。でもその何にもないことこそが田舎のいいことなことに気付くのは老人になってからかもしれない、つまり東京をみたまい、そこはあまりにもありすぎて困るのである。家や都会がひしめき悲鳴をあげているようである。自分はもともと性格的に都会向きではなかった。だから学生時代に東京で暮らしたがあわないから田舎に帰ってきた。でも故郷には何もない、田舎には何もない、都会がいいと思っている人が多い、若者は今もそうである。ただ老人になると心境が変わる、どうしても田舎がいいとか故郷がいいとかなる。それは都会が好きでもそうなるのである。それが人間も生物だから自然の中に還りたいとなるからである。


俳句は写生だと書いてきた。冬菜と竹しかないその一画がかえって気持ちがいい、何もないことが気持ちいいのである。冬が爽快なのは何もないということにある。現代文明はいろいろなものがありすぎて困っているのだ。家事全般を掃除までやるようになってからゴミがこんなに出るのかと嫌になった。現代文明はゴミが出すぎるのだ。それも相当の無駄である。新聞もたまるから嫌になった。新聞は相当な紙の無駄だし文明は無駄が多すぎたのである。新聞がなくても今は暮らせる。新聞は紙の浪費になりつつあるのだ。人間はこれから無駄を省く生活を心がけねばならないだろう。今までの文明的消費的生活でいいのか問われている。それはまた都会的生活でもあった。都会がすべてが悪いとはならない、現実に今日も原町のカキフライのうまいレストランに行った。やはり原町くらいの方が住みやすいのだ。ただ原町とか5万くらいの都市と東京は比べ物にならない、仙台でもまだ田舎の都市なのである。現代文明を見直すというとき茶とか禅の精神とかが見直されるかもしれない、宗教はそもそもそうした簡素さのなかでの悟りとかを追求してきたからである。簡素さの中にこそ真実がある。それは明かに写生俳句に通じている。あまりにもありすぎる社会によって人間は疲れたのである。何もない世界がもともと自然である。あまりにもありすぎて複雑すぎるから苦しむのである。真っ直ぐな竹と冬菜だけの光景にシンプルな簡素な生がある。そういう世界ではありすぎる現代社会のように悩むことはない、鬱病になることはないのである。だから江戸時代が終わり明治に来た外国人が日本人はいい顔している、穏やかな顔しているとして驚いたというのはそのためである。貧乏であるにしろいろいろなものがありすぎて複雑で悩むことがなかったためなのである。文明はいろいろな過剰故に苦しんでいるからだ。


汽車過ぐるあとを根岸の夜ぞ長き-子規


上野ですらこんな状態だった。上野は淋しい場所だったのである。今からすると信じられないが実際にそうであり子規はそういう淋しい場所に住んでいたから風流もあったとなる。今は風流はない、汽車が真夜中まで行き来して今や車でも音が絶えることがない世界からすると考えられないのである。上野で汽車が過ぎ去っていってあとなかなか汽車が来ない・・・汽車もそんなに上野に来ないということが考えられないのである。


まあ、まだまだ冬は長い、それにどこにも出かけないとさらに時間が長くなり退屈になる。結局自分の状態は以前として変わっていない、介護になるとちょっとでも出かけられなくなるのだ。
病人は一人になると不安になるからだ。近くまでも出かけられなくなるなど考えもつかなかった。これが一番ショックだったのである。

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/43137804
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック