手水鉢打ち凍りけりジョウビタキ庭に来たり去る朝の清しき
俳句は写生だと書いてきた。冬菜と竹しかないその一画がかえって気持ちがいい、何もないことが気持ちいいのである。冬が爽快なのは何もないということにある。現代文明はいろいろなものがありすぎて困っているのだ。家事全般を掃除までやるようになってからゴミがこんなに出るのかと嫌になった。現代文明はゴミが出すぎるのだ。それも相当の無駄である。新聞もたまるから嫌になった。新聞は相当な紙の無駄だし文明は無駄が多すぎたのである。新聞がなくても今は暮らせる。新聞は紙の浪費になりつつあるのだ。人間はこれから無駄を省く生活を心がけねばならないだろう。今までの文明的消費的生活でいいのか問われている。それはまた都会的生活でもあった。都会がすべてが悪いとはならない、現実に今日も原町のカキフライのうまいレストランに行った。やはり原町くらいの方が住みやすいのだ。ただ原町とか5万くらいの都市と東京は比べ物にならない、仙台でもまだ田舎の都市なのである。現代文明を見直すというとき茶とか禅の精神とかが見直されるかもしれない、宗教はそもそもそうした簡素さのなかでの悟りとかを追求してきたからである。簡素さの中にこそ真実がある。それは明かに写生俳句に通じている。あまりにもありすぎる社会によって人間は疲れたのである。何もない世界がもともと自然である。あまりにもありすぎて複雑すぎるから苦しむのである。真っ直ぐな竹と冬菜だけの光景にシンプルな簡素な生がある。そういう世界ではありすぎる現代社会のように悩むことはない、鬱病になることはないのである。だから江戸時代が終わり明治に来た外国人が日本人はいい顔している、穏やかな顔しているとして驚いたというのはそのためである。貧乏であるにしろいろいろなものがありすぎて複雑で悩むことがなかったためなのである。文明はいろいろな過剰故に苦しんでいるからだ。
汽車過ぐるあとを根岸の夜ぞ長き-子規
上野ですらこんな状態だった。上野は淋しい場所だったのである。今からすると信じられないが実際にそうであり子規はそういう淋しい場所に住んでいたから風流もあったとなる。今は風流はない、汽車が真夜中まで行き来して今や車でも音が絶えることがない世界からすると考えられないのである。上野で汽車が過ぎ去っていってあとなかなか汽車が来ない・・・汽車もそんなに上野に来ないということが考えられないのである。
まあ、まだまだ冬は長い、それにどこにも出かけないとさらに時間が長くなり退屈になる。結局自分の状態は以前として変わっていない、介護になるとちょっとでも出かけられなくなるのだ。
病人は一人になると不安になるからだ。近くまでも出かけられなくなるなど考えもつかなかった。これが一番ショックだったのである。