春日さし孟宗竹や健やかに
数十本孟宗竹や芽吹きかな
穏やかに春日のつつむ夕べかな
孟宗竹は健康の象徴かもしれない、たくましく真っ直ぐ伸びるからである。認知症には確かに回想法というのは効果的である。認知症になった人は昔の方が生き生きとした世界でありその時に今も生きているのだ。だから同じことを百回も話している。それがなぜなのか?話したことを忘れて毎日話しているのか?必ずある場面のことを話すると笑って機嫌がいいのである。ただ聞いている方にするといやになってしまう。またかとなるからだ。
でもその中でちょっと話が変わり昔の貴重な歴史がわかることがある。戦前の学校では農休みというのが二週間くらいあったという。これは蚕様で忙しくなるとき手伝いのために休まされたのである。蚕はどこの農家でも飼っていて絹は輸出産業として国家で一番大事なものだった。だから機織りで働いた女性が実に多いのである。私の母もそうであり親戚の人もそうでありこれはいたるところがそうだった。この蚕様は山の中でも飼われていて主要産業となっていたのだ。まず学校を二週間も休ませること自体今ではありえないから蚕様をいかに大事にしたかわかる。田植えの時も農休みがあったとなるといかに農業中心の社会だったかもわかる。認知症でも過去の世界は生き生きとして語られるからそこから学ぶことがありうるのだ。ただ同じことを毎日しゃべることには閉口する。でもその中に話が変わることがありそれで別な興味を持つこともありうるが前は聞きもしなかったが今や聞かざるをえなくなったのである。老人は過去のことが生き生きとしてそこにまだ実際生きている。だから認知症になると現在より過去が現実になったりしているのだ。
今日の春の日はなんとも穏やかに自分をつつむようにあたたかであった。まあ、一時の異常な状態から正常の世界にある程度は戻った。それで春の日のあたたかさを感じたのである。認知症は今の時点のことは次々に忘れてもすべての機能を失うわけではない、家事でも昔からやってきたことはやれるのである。ピアノができる人はピアノがひけるし将棋をやってきた人は将棋もできる。今までやってきた能力が失われるわけではないのだ。だからそういう残った能力、機能を回復させることが大事になるのだ。だから「回想法」は認知症の人にとってはいい方法なのである。