2011年01月25日

この世は人間は狂気にいたり滅ぶ


この世は人間は狂気にいたり滅ぶ

一つの狂気が終わりまた一つの狂気がはじまる
この世が滅ぶまで狂気は終わらない・・・・


●自分の家族も狂気だった


世界は病院である
http://www.scot-suzukicompany.com/works/01/


人間の狂気など特別なものであり普通の人は関係ないというが人間は最後にほとんど狂気にいたって死んでゆくようだ。正常でも狂気にいたる。リア王だけが狂気にいたったのではない、
多くの老人が狂気になってゆく、認知症になると本当に脳の異常が加わり狂気になる。身内でそれを死ぬまでみてきたから未だにショックである。自分の家族そのものが正常から離れた異常であったからやむをえない面があった。老人が狂気になってゆくというときそれはなぜなのか?結局人間の業が極端化するのが老人だからだろう。人間は老人になったからと欲望が枯れるわけではない、肉体的には枯れても名誉欲から金銭欲から権力への欲望は消えることがないしかえって先鋭化することがある。老人になるとその人がますます依怙地になり自分の主張を曲げなくなる。94才になって庭作りしたがその庭作りしたことを絶対に認めないのも自分が無用だと思うもの価値ないものは絶対に認めない、それは狂気であった。その後多少ボケてきたみたいだがそれにしても94才まで自分が無駄だと思うものは絶対認めない、金は使わせないと必死になっている姿は狂気である。老人にはそうした異常な人々が多数いる。世界は病院であるというとき別に精神病院でなくてもこの世は狂気の病院であることはまちがいない、精神病者だけが病人ではない正常と言われる人もほとんど病人なのである。犯罪人も実際は病人だと思う。心が病んで犯罪にいたる。憎しみが極限化したとき殺人にいたる。その動機はわかるにしてもそれも狂気になっているからこそできるのだ。無差別殺人などもその人は精神病でなくても狂気になってゆきできることである。なぜ俺だけが恵まれていないんだとかなぜあいつは恵まれて金に困らないのだ、俺はあくせく働いても金にならない、あいつは親の遺産でたいして働かなくても金がある。あんなやつから金を奪っても罪にはならない、真面目に働くのが馬鹿らしいとかなり実際に犯罪にいたる。そういう思いが狂気になり爆発して犯罪になる。


●集団組織も狂気だ


カルト宗教団体も集団化した狂気だった。オウムが極端だったから断罪されたけどカルト宗教団体は狂気なのだけど社会的に権力を持つ結果その狂気を見逃されている集団である。その狂気が爆発したのがオウムであったのだ。サリンをまいた人は自分が出世にするにはサリンをまくほかないと思っていた。高学歴の頭のいい人たちが幹部になっていたからである。これも一種の狂気的野心と欲望だったのだろう。組織化序列化集団化の世界はその内部で激しい権力闘争になり狂気化してくる。創価でも社会の下積みのものがやがて金持ちになり革命が成功したら選挙で多数をしめたら政治家にもなれるし社会的に高い地位につける、そうすれば金持ちにもなり豊になれると毎日現世利益を求めて祈っている。そこには高尚な本来の宗教心など一かけらもない、カルト宗教団体は集団的に社会に容認された狂気の集団である。ニ-チェも言っていた。個人も狂っているが集団も狂っていると、実際に自分も神は死んだとして狂ってしまったが集団も狂っているのは確かである。ただ集団で狂っていれば狂ったとはならない、大勢だから正常だと認められるのである。それらがナチスとなり社会主義革命の狂気に突っ走る。当然内部での権力闘争があり粛清の嵐となり多くの人がその中で殺戮された。カンボジアの狂気もそうであった。戦争もどこの国が正しいというよりは権力闘争の結果としての狂気であった。どっちにしろ正当化などできないものだった。やらなければこっちがやられるとか弱肉強食の世界の政治闘争だった。つくづく世界史は狂気の舞台でありそこで無惨な殺戮が何度も行われてきた。人間はなぜこれほどの狂気と愚行の繰り返しなのだろうか?その原因はすでに個々人の尽きることのない欲望からはじまっている。その欲望の業は尽きないから狂気は終わることがない、この世を生きることはこうした狂気的な人間の中で生きることなのである。


●狂気の人に怒っても無駄だ


そしてその狂気をとめることができないことが絶望的なのである。その狂気の原因が個々の欲望にあり欲望をあきらめろとか言っても無駄である。欲望はますます激しく増大して抑制することができない、そして遂には犯罪になる。欲望が極端化すると狂気化して犯罪にいたる。自然は平和であるというとき人間のような際限のない欲望や憎しみとか恨みとかの念をもたないためである。詩でも書いたように樹や石が他者を傷つけるようなことがないからである。自然は決して無駄に争ったりしないからである。人間はいくら平和を唱えても平和になれない、平和は個々人で平和な人がいないからである。個々人をみればみんな様々な欲望を持ち何かたりないと不満がいつも鬱積している。あれかたりないこれがたりないと満足して感謝するということはない、ただ要求するばかりでありその欲望がかなえられないと不満ばかりでありその不満が高じると犯罪までなる。自分が最近接した人は本当に狂気の人間ばかりだった。まともな人は一人もいなかった。そして老人になったから悟るとかない、悟りなど年齢を重ねてもない、欲望が悪い面さらに先鋭化したりしてくる。庭などいらないとか自分が無駄と思うものを絶対に許さないとか個々の家族でそうした老人がいくらでもいることを見ているだろう。人間は本質的にすべて狂気的存在であり老人になるとその狂気的なものがむきだしになってくる。人間に平和がないというというとき別に戦争があるから平和がないというのではない、個々人の心に平和かないのである。憎しみや妬みや恨みの感情をこの世から決して消すことができない、いくらやめろといってもきかない、狂気の人に言っても無駄である。狂気はとめようがないから狂気なのである。
俺は必ず復讐する、そんなこと無駄だからやめなさいと言ってもとめようがないから狂気になっているから無力だとなる。


●人間の行き着く先は狂気にいたり滅ぶ


この世を生きるのはまさにこうした狂気の人々の中で生きることなのだ。自然は穏やかで他者を傷つけないが人と人はどこまでも傷つけあい生きてゆく。そういう光景を60年間家族の中で見てきた。どっちにしろ狂気であり一人は本当に認知症の狂気にいたり死んだ。もう一人も狂気であった。では自分の家族だけが異常なのか言うとすでに個々人が狂気なのだからそこにはどうしても狂気的なものがどこからも生まれてくる。この世こそまさに地獄である。狂気の世界、地獄の世界にほうりこまれているのだ。当然この世では様々なそうした狂気の人間の中で生きるのだから理不尽なことが起きて当然である。どんな平和な人もそうした狂気にまきこまれてゆく、さけることはできないのである。狂気的戦争をやめろと言っても無駄である。集団が狂気化しているから止めようがないのだ。人間の欲望とか狂気を鎮める薬はない、人間の業を鎮める薬はない、宗教はさらなる狂気に拍車をかける。つまり人間の欲望を抑制したり否定する宗教は本質的に成り立たない、カルト宗教団体は数をふやすことを第一としているとき決して人間の欲望は否定しないのである。


ともかくこうした地獄化している世の中で一人一人を諭しても無駄である。だからこそ出世するとは世の中からでる、狂気の世界から出ることであった。そうしなければ正常を保てないからである。人間は最後の審判がくるとかハルマゲドンが最終戦争がくるということこそ真実でありこの世は一旦滅びない限り永遠の平和やってこない、この世の欲は滅びるというときそうならないのが当然である。個々の狂気の人間をみていたら確信する。もうあきらめるほかない、精神病者の犯罪に刑が与えられないようにこの世では犯罪でもあきらめるほかない、精神病者と争うこと自体無益だとなるからだ。そんなふうにでもしなければこの世は乗り切っていけない、それほど人間は狂気的存在なのである。現在は狂気であり過去はも狂気であったが過去は過ぎ去ったから思い出として平和がそこにあるのである。過去を思い出しても過去は過ぎ去ったからこそ平和があるのだ。現実は常に地獄なのが人間の現実だったのである。


世の中は地獄の上の花見かな(一茶)


桜だけではない、本当に花を見ていると平和そのものである。風にそよぎそれぞれの美しさをあますことなく現して咲いている。夢見心地に咲いている。でもその花も人間界という地獄の上に咲いていたのである。それはなんという対称的なことなのだろうか、自然は調和している、人間は決して調和しない、この世の終わりまでその欲は業は尽きることなく燃え盛り最後に世は滅び終わるのである。



山や樹や石に狂気はない

自然界に人間の狂気はない

人間だけが狂気を作り出して

狂気の内に滅びる

罪と欲望は狂気と一体

ソドム、ゴモラを脱出するほかない

神により滅ぼされるから・・・

この記事へのコメント
狂気にも様々で、狂人は狂人という認識がないから恐ろしく精神科と警察や司法の管轄で、認識がないのはカルト教に洗脳された醜い嫉妬や醜い感情やエゴ、自惚れや思い込み、醜い裏表の激しい立場を守りたい複雑な真相心理が絡みんでいるからかもしれません。これは、私の身近な狂人がそうだからです。正常な人の狂気は一過性のもので認識があり軌道修正可能でしょう。狂人は、滅亡するのが自然の摂理です。今の世の中は、肉親さえ殺傷する様な狂人だらけ。司法や神は被害者を必ず守り抜き勝利を与えるでしょう。
Posted by 鶴婆 at 2011年01月27日 21:20
医者が医者としての誠実さに欠けた治療を施し立場を守るためにカルト教壇、低俗な派遣やと繋がり狂人にもなるのか…。人を死に追いやり人を病人に仕立ててまで立場を守り他人から良く思われたいのか、在日韓国人や裏表激しい低俗な人間の生きざまは、こんなもんか。ヒポテラス精神は幻想だったのか…。
Posted by かわむらひでを at 2011年01月28日 07:52
人間は自分が狂人だ認識している人は狂人ではない
自分が愚かだ馬鹿だと思う人も馬鹿ではない
自分が狂人なのに狂人ではない
自分が愚かなのに馬鹿なのに疑うこともない
そういう人が恐ろしいということです

カルト宗教団体の人は誰も狂人とは認めない
正常な社会に奉仕する団体とさえ偽ることができる
数が多ければ社会ではどんな団体も認める
それが最終的にナチスのようになっても

カルト宗教団体の人は自分たちは正しいことしている、人のためにしていると信じて行動している
だから本当の狂人より始末が悪い
それが数が多いのだからとりしまることもできないからだ

一人のカルト宗教団体からの被害者がいたこと
その人がカルト宗教団体を告発するということが
ほとんどないことでもわかる
むしろ告発した人が異常と思われることでもわかる、それは集団化した狂気は正常だと社会的にはなってしまうからです
Posted by プログ主(小林) at 2011年01月30日 15:32
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