2011年01月21日

山眠る十句

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山眠る十句

朝よりかわずらいなきに山眠る

朝よりか人声なしや山眠る


便りなきは良き便りかな山眠る


山眠るさらに眠りの深きかな


世のことにここに及ばず山眠る


重なりて山々深く眠るかな


故郷に墓の静かや山眠る


前の山後ろの山や山眠る


起こさざれ山神眠り山眠る


都市間の町村静か山眠る


無益なる浪費の多し眠る山


朝夕や時計のなしや山眠る


数字見ず計算なしや山眠る

 



冬は冬籠もりであり休止であり眠りの季節である。自然のリズムだったらそうなる。今や人間は眠らない、眠れない、24時間眠らない、都市は眠らない、不夜城となり眠らない、それで疲れるのだ。人間は時に眠りたいのだ。嫌なことを忘れ眠りたい、自然は深々と眠っている。人間だけが活動を休止することができない、それで疲れるのである。鬱病にもなるのだ。健康的にも眠らないと良くないらしい、眠ることは健康の元なのだが仕事に追われている人は眠れない、自分は眠りを十分にとることができたから体が弱くてもなんとかここまで生きてきたのだろう。都市が必要でもその間に小さな町や村があり郊外には田園が広がっているのがいい、相馬でも小高とか鹿島とか新地、駒ヶ嶺とかは山眠るにふさわしい、でも原町、相馬市に買物など行ってさびれるのは問題である。でも山眠るにはふさわしいとなる。相馬でも地域差で感じが違ってくるのだ。


朝から冬はじっとしているのが気持ちいい、今年は寒いけど冬らしい冬で頭がさえた。特に自分一人だと朝から瞑想的になっていた。でももう退院させられるから今度はまた老親の世話でありそうした時間もなくなる。これからまた病院で相談である。ここ五年間こうして老親の世話でゆったりすることができない、認知症だったら余計そうだったしそうでなくても半分ボケたようになっていると話し相手にもならない、留守もできない、ただア-ウアアとか半分知的障害者を相手にしていると同じである。こういう障害者をみていることは並大抵の苦労ではない、正直一緒にいたくない、しかし病院からは出される、それでまためんとをみるほかないのだ。社会的入院がふえることがわかる。高齢者が入る施設がないのだ。近ければ病院には毎日行っていたように施設でも近ければ毎日行ける、そういう気軽な施設があると楽なのである。自分のことをある程度できるならそういう施設でもさほど負担がかからないのだ。特養は入れないから今はそういう安価でもそうした施設が必要なのである。近ければ別にめんどうみないということではない、何かしら手伝いができるし家の延長としてあるようになるからいいのだ。毎日顔あわすこともできる。だから家の延長のような施設がつくづく必要だと思った。在宅で個々に高齢者のめんどうをみるのは家族が少ないとき無理なのである。

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