推理小説のドラマを毎日見ていて
(犯罪に時効はない-死後までつづく)
自分もそれとにたことを経験したので推理小説が生々しく身近に感じられたのだ。犯罪者を許すと書いたが犯罪者は反省するにしても自分を甘くしか反省していない、本当に反省するなら花をささげるくらいですまないことはわかっている。自らの気休めにくらいしかなっていない、その被害が余りにも大きすぎるからだ。盗難にしても盗難された金はほとんど返ってこない、それはたいがい使ってしまうし返したくないからである。反省する心より自己保身が第一になるからだ。だから犯罪者を許すというとき一方で納得いかないものを感じた。犯罪でも重大な犯罪になればなるほど反省することはむずかしくなる。人を殺したとなればその人は返ってこないのだから被害者にすればその怨念は晴れない、その犯人を殺してやっと心も晴れるがしかし殺された人はもう返ってこないのだから深刻である。犯罪を犯すというのはその罪の大きさに比例して反省したり悔いる事は困難を極める。犯罪はとりかえしのつかない面があるのだ。なぜなら犯罪を犯して素直に謝っている人などいないからである。 それだけ一旦犯罪を犯すともうそれを修復することすらできなくなる。なぜなら殺した人の命は返ってこないからである。金なら返ってくるということもあるが実際ほとんど返ってこない、自分が欲しくて欲しくて盗った金だから返したりしない、自分のために使って返したりはしない、人間はやはりどこまでも自分がかわいいし自己保身なのである。
では犯罪者にどう対処したらいいのか?犯罪が明るみに出されて罰せられているのはごくわずかである。あとは明るみに出されないしそういう人でも平然と何食わぬ顔で社会生活をしている。善人を装っている人もいる。結局証拠がなくて罰せられなければそうなる。誰もわからないからである。おそらくこの世ではそうして何食わぬ顔で罰せられずわからずに普通に社会生活が送れる。もう時効になるんだから証拠もないんだから自分は罪から解放されるんだと勝手に自己の都合いいように解釈する。犯罪人は簡単に罪を認めたり悔いたりしない、第一に自己保身と自分の利益を考えるからである。犯罪となればそれ償うとなると大変な労力が要求される。殺人だったら償っても償っても償いきれないものだからその重荷は背負いきれない。だから償いをしようとしても花をささげたくらいで良心の呵責から逃れようとしている。それはそれで多少とも反省があるのだからいい。でもただそこには自己保身の安易さしかないのである。自分の罪の重大さを感じていない、自己保身が自己利益が先であり償いは簡単なものとして終わらせる。
つまり罪を償うにしてもあまりにもその負担が大きすぎてできない、そこに犯罪にほとんど償いがない原因なのである。
だから犯罪者について相手にそうした反省がないとき自分で許すといったのは変だと気付いた。ただ自分では憎しみとか恨みの感情をもちたくなかった。許すと言ったときその罪自体は許していない、実際は反省していないのだからこの推理小説のドラマと同じように償いはせいぜい花をささげるくらいだからである。それですむはずがなくても犯罪者はそんなことですむように思う。それも自己保身、自己利益から逃れられないからだ。でも犯罪者でも罰せられない人は本当に多い、警察沙汰になり表に出てこない犯罪は多い、それも大きな犯罪でもそうなっている。行方不明者が毎年一万にくらいいるとしたらその中で殺人になっている人もかなりいるからだ。表にててくる犯罪は一部である。多くの犯罪は隠されたままになっている。それは今だけではない昔からそうなっていたのだ。
東京都23区、大阪市をはじめとした五つの都市を除いて、日本には「監察医制度」が無い。だから変死体が見つかっても、多くの場合は適当な検死で事故や自殺と判断され、多くの殺人事件が見逃されてしまっている可能性がある。つまり、罪は必ず暴かれるというのはウソであり、我々が思っている以上にこの世の中には完全犯罪が多いということだ。
一億総犯罪者予備軍
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080625/p1
そもそもこの世の犯罪など昔から裁ききれなかった。裁かれない犯罪の数は過去から数えれば膨大である。つまりもうすでに犯罪は人間の力では裁ききれないのである。罰せられるのはごく一部だとすると犯罪を罰しうるのは神しかない、もしそれがないならこの世は無法地帯になる。
では犯罪というのは罰せられないのか?それで実際に不満が大きくなっている人いる。そういう人はどうしても自分で恨みを晴らしたくなるのだ。警察だけではどうにもならないからそうなるのだ。警察でも証拠が明確でないと動かない、すると証拠がないですべてがかたづけられていたら被害者でもやりきれなくなるから私的復讐になってしまうのである。仇討ちという私的復讐を公認性にしたのもそのためである。いづれにしろ犯罪に時効などありえない、被害者はそれではたまらないからだ。でも結局誰がそうした罰せられない犯罪者を罰するのか?それは最後はその人の良心と神しかない、「死後裁きにあう」とはまさに犯罪には時効がないことを言っているのだ。この世ではまねがれても死後はそうはいかない、死後に裁きにあうということは実際は恐怖である。なぜなら生前なら犯罪を改める、悔いて反省できても死後はもうできないからである。それを深刻に考えないから簡単に犯罪を犯してあとは自己保身利益で逃れ平然として暮らしている。犯罪は死後までつきまとう、もちろん裁きにあうというとき犯罪者だけではない、その裁きは神のみが行える裁きである。だから間違うことはない、人間は裁けない、その人の罪はわかっていても裁けない、その軽重もわからないし裁くことは神の権限であり人間にはないからである。裁きというときどんな善人もやはり罪があるのだから裁かれることになる。犯罪者のように明確な罪でなくても隠された罪も露にされ裁かれる。人間が裁けないというとき人間は一人も罪がないという人はいないからである。罪なき人が打て・・・とキリストが言ったとき誰も打てなかったからである。「死後裁きにあう」ということがなけれは人間の世界は本当に不公平なものとなる。裁きというとき必ず自分にも向かってくるものである。だから神が裁くのであり人間にはできない、裁判官も自分が今度は裁かれるのだと言ったそうだが裁けないのに裁いたからそう言ったのだろう。