宗教とは何なのか(善悪の世界で心が試される)
●神は悪を容認している
●回心は加害者だけではない被害者にもある
だからこの世では悪から逃れることができない、悪を全面的に否定して生きることはできない、どんな人でも悪を受ける運命にあるのだ。だから悪に対処するにはどうすればいいのかとなる。憎しみや恨みに憎しみや恨みで対抗しても悪はなくならない、そこに平安な心はない、それは悪を成された人と同じレベルに落ちてしまうことなのだ。汝の敵を愛するようになるまでこの世に平安は来ない、、愛し許す心に平安が宿る。ただこれを口で言うのは簡単である。現実問題になると困難を極める。肉親を殺されてみろ、お前は許されるのかとかなる。だから宗教者がいてもきれいごというだけで説得力がない、実際の体験から宗教者は述べていない、ただ教典を読んでいるように諭してもそういう悪の攻撃を受けたものの憎しみや恨みや呪いは消えることがない、それは自分もそうだった。だから人に諭すことより自分の体験を言うのがいいのだ。許しがたいものがありそれは十分にわかるからだ。でもいくら言ってもその人が回心しない限り無駄だろう。そして憎しみに憎しみ、恨みに恨みをもってしても一向にこの世は人は良くならない、何であれ憎しみ恨みの念を持つことは自分自身も害するのである。その憎む理由はわかるにしてもやはりそういう念を持つことは自分も害を受ける、果たして憎しみを恨みをぶつけてその思いを果たしても結果的に両方ともいいことはない、悪人は憎しみに憎しみを返したからといって決して良くなったりしないのである。だから許しがたき許す、万感の思いで許すほか心の平安は得られない、その涙は真珠となる。これもその人によってその試練を受ける度合いが違うのだろう。より優れた人は大きな悪の試練を受けるかもしれない、そこでまた心が試されているのだ。常に心はこの世では試練を受けているのだ。悪を成す方に注目されるが悪を受ける方もまた試練を受けているのだ。悪により善が試され善は強化される。善悪があるということはそうではないか、もし悪がないならそこは天国になる。より善を強く意識するために悪があるのだ。
だから悪も神が容認している。
●憎しみに憎しみを返しても平安が得られない
万感の思いで許しがたきを許すとき愛すときそこに心の平安が生まれる。それは簡単にはできないことである。これはただ他人に言ったところで納得することはない、そんなきれいごと言っていられるのは大きな被害を受けていないからとなるからだ。ただ自分も自分なりに被害を受けたからこそそう言っているだけである。他者に憎むことや恨むのはやめろと言ってもその人がそういう心にならない限り効果はない、ではそうしたことがどうして起きるのか?それも一つの回心かもしれない、毎日のように憎んでいた、激しく呪ってもいたがある時、突然その激しい憎悪が消えて許す気持ちになった。昨日まで憎しみで一杯だったが突然回心したように許す心になったという不思議がある。悪を成した人、罪ある人が回心するということは聞くしその方が普通である。でも悪を成された方にも突然回心する、人を許す心になることがあるということである。その時心が晴れたように気持ちよいものとなった。人間の心の作用の不思議がある。そして宗教とは相手に対して心を変えることを回心を祈ることである。
●憎しみ恨みの念は伝播する
憎しみとか恨みをもっている人と接するとどうしてもその念が伝播する。ひどいめにあったらそうなることはやむをえないと思う。でもそういう強い憎しみ恨みの念は確実にその人から出てきて回りに影響するのだ。だからなんの気なしに接していて愚痴など聞いていてもそこから憎しみとか恨みの念がでてきたりする。会話でもそういうものがどうしても話題になるから聞いているだけで影響されるのだ。これは個人だけではない、国家間でも憎しみは伝播して国と国が対立して戦争にまでなる。中国や韓国の反日デモは憎しみが過剰に作られている場合があるのだ。第一自分の親が日本人に殺されたとか具体的な恨みをもっている人はもはやいないのにそうなっているから憎しみが作られているのだ。宗教団体でも争っているらしい、内部でも争いがあると憎しみが団体の中で伝播して一丸となり他の団体を攻撃することになる。創価でも内部で争いがあり本山と熾烈な憎悪があった。そして正本堂は破壊された。A団体とB団体があればその中に入っていれば対立して憎しみあいばいやでもその憎しみを持つしまた敵となる団体の憎しみを受ける。それで創価と真光とか幸福の科学とかが争っている。その原因は勢力争いなのである。宗教団体は政治団体でもあり会員をふやして勢力を拡大することが第一になっている。どんな宗教でも憎悪の感情を刺激するようなことはしない、憎むな人を愛せとかが宗教だから共通しているのだ。でも勢力争いになると宗教が政治化すると他の団体と衝突するから憎しみが生まれてくる。個人的に宗教団体に恨みを持つ人もいたが宗教団体同士が憎しみ合う、その内部抗争で憎しみ合うことが熾烈となる。宗教が組織化団体化すること自体が勢力拡大であり権力化する宗教である。数が集れば権力化してくる。数で社会に圧力をかけることができるからだ。すでに組織化団体化すること自体が権力志向になっているのだ。
●宗教は心を最重要視する
つまり心の平安は肉体が直っても必ずしも得られない、もちろん病気から心の平安が得られなくなるのはわかる。でも本質的なものとして心と肉体は別である。罪の問題でも肉体の問題ではない、心の問題である。罪と悪は人間の心をむしばむ。一種のやはり病気なのだろう。その病気は肉体を治すようにはいかない、経済問題でもそれは肉体の問題である。腹がへれば腹をみたせばいい、しかしそれで心の問題は解決しない、世の中の問題はすべて経済問題、肉体問題になっている。でも心が第一とするのが宗教である。不況を何とかしてくれ貧乏をなくしてくれと神に頼むことはできない、病気でも貧乏でも不幸でもそれによって心がねじ曲げられないように祈るのが宗教である。実際に貧乏で心がねじ曲げられて犯罪に走ることが実に多いことでもわかる。ではその貧乏が解決してもやはり人間の心は良くなっているとは言えないのである。現実にいくら豊になってもモラルが低下しているのは心が病んでいるからである。貧乏なときの方があわれみの心があり人情が厚かったというのもそのためである。今のように豊で科学が発達していろいろ成すことができるようになったのとは違い、何もできないとき医は仁術であった。医者や普通の人も人情がありあわれみの心でみていたのである。むしろ何もできないが故にそうしたあわれみの心が深くなっていた。あわれむほか手段がないともいえた。逆に今は科学が無情を非人情を作り出していることがあることは述べた。医者や看護師など今は機械的に接していることが多い。その仕事は大変なのだが人間を物体のようにみて処理してあわれみの心が喪失している面もある。肉体の面での治療は格段に進歩しても心の面でのケアはかえって退歩しているということもある。
宗教は最初病気のことでも経済のことでも社会のことでもあらゆる問題を追求するものだった。
でも宗教で病気を治したり経済を良くしたりいろいろな不幸を解決ものとはならない、みんな経済問題で苦しむし病気にもなり様々な苦をまねがれることはできない、そういう不幸が来ないことを祈っても宗教にその力はない、ただ心を直す変える、回心させるとか心に働きかけるのが宗教である。しかし考えてみるとそのことが肉体を直すより困難を極めている。結局それはこの世から悪がなくならないことを見ればわかる。いくら科学が医療が発達しても悪は以前として同じようにありかえってモラルが低下しているのをみればわかるからだ。
カルト宗教団体の犯罪は立証されるものでしょうか
検察でどう判断するのでしょうか?・・・
ただ恨みだけでは検察は動きませんからね
周囲を味方につけて被害者を孤立させるパワ-ハラスメントがエスカレートし人の命までが犠牲になった事実は立証可能なのです。権威があろうとも司法の前では意図も簡単に崩壊する事をお伝え致しましょう。