2011年01月11日

資産家の餓死死亡の姉妹、生前に窮状訴え「どうしたらよいか…」 大阪・豊中


資産家の餓死死亡の姉妹、生前に窮状訴え「どうしたらよいか…」 大阪・豊中


大阪・豊中市のマンションで8日、元資産家姉妹の奥田紀代美さん(63)と久美子さん(61)が遺体で見つかった。発見当時、2人はともに体重が30キロ台で、栄養失調と心筋梗塞で死亡した疑いが強まっている
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/110109/crm1101092122016-n1.htm

姉妹はまだ61-63才だった。結婚していないことが変わっていた。お嬢さんの姉妹だった。土地とか財産あったのだけどそれを有効に利用できずかえってその財産があだになり餓死するまでになった。財産家でも餓死することがあるのか?税金が高く資産のマンションの管理もうまくいかず負債になったのか?ともかくこんなことになったのは一重にこの姉妹がお嬢さんだったのだろう。社会のことがまるでわからない、だから資産目当てに寄ってきた人にいいようにされたのだろう。それしか考えられないのだ。こうした財産家のことを理解することはむずかしい。ただ資産家であり社会で働いた経験がないということは確かなのだろう。二人して結婚もせずそうなった。一人が勤めていればこうはならなかった。資産は回りの人に食い物にされたのかもしれない、そして何より誰か親身になって相談する身寄りなり友達なりがいなかったのことが最大の悲劇につながったのである。変な話だけどこの人はマンションをもっていたりしたら管理するから昔だったら大家になる。相談するより相談される方だったのである。


昔は江戸時代から大家は親も同然とういうときいろいろな相談にのっていたのである。長屋だったら餓死する前に米くらい隣に借りに行っていたろう。大家が餓死して死んだというのもどういうことなのか?こういうことこれも現代を象徴しているのだろう。何が一番の問題なのか?つまり親身になって昔の大家のように相談する人が身近にいないということなのだ。たしかに現代は福祉関係で役所とか機関はあるが意外といざそれらを利用するとなると即座にはその仕組みもわからないし利用しにくいのである。かえって大家であれ庄屋であれ何かそうした人間的な場所で身近に相談する人がいないというのがこういう悲劇を生むのである。いろいろな機関はあるのだがそういう機関にはなかなか気軽に相談にいけないし弁護士を頼んだりするとまたこれもめんどうである。村であれ都市の長屋であれ昔だったら相談にのる人がいて納めていた。それが現代にはなくなった。

埼玉の児童虐待で離婚した子供が死んだのもそうだった。離婚してインタ-ネットで知り合ったよく知らない人にベビ-シッタ-を頼んだ結果、虐待になり死にいたらしめた。これも児童相談所とかあるがこういう場所はなかなか相談しにくいところがある。現代は田舎でも身近に親身になって相談する人がいなくなった。他人には極力めんどうだからかかわらないということもある。
無縁化社会、孤独死とかそういう人間と人間がじかに昔のようにかかわらない時代になった。

ところがこれが大家族だったり家族が最低限いる人はいいのだ。この姉妹も残された家族は社会経験もない二人だけになり取り残されてしまったのである。財産の管理もできない人たちだった。そこをつけいられたのである。貧乏人でも生活保護受けられなくて餓死したとかあったが資産家でも餓死するなんてありうるのだと驚いた。その原因は身近に気軽に親身になって相談する人がいなくなっていることなのだ。機関があっても肝心の人間がいないのである。

そうなると江戸時代の大家のようなものがかえって頼りになるし人間的に問題を解決してくれるからいいとなる。現代ではそういう仲介してくれる共同体の要になるような人がいないのである。もちろんいすいろ役所や機関はあってもそれと人間そのものに相談するのとは違ってくる。そういう相談する人がいなくなったというよりは社会そのものがそうした身近に相談する人を排斥している、必要ないものとしている社会になった。無縁化社会にしてしまったのである。無縁化社会は極端に金だけを最重視する社会である。金あればなんでも手に入るじゃないかという社会である。でもこの資産家には金は財産はあってもどうにもならずかえってその財産で身をつぶした、ギャンブルとかに使った訳でもない、自分も経験したがこういうことはこれから形を変えていろいろ起きてくる。貨幣が万能と思っているが実際は貨幣で何でも買うことはできない、特に人は買うことはできない、信頼する、親身になって相談にのってくれる人を金で頼むというわけにはいかないのである。


だから現代では金があっても身近に相談する人や頼る人がいない、家族がいない人は悲惨なことになる。悲劇が待っている。お一人様とか独身とか単身者がふえる社会は本当に実際は荒野に放り出される、「俺たちが必要なのは金なんだよ、お前は金さえだせばいい、あとは餓死するなりなんなり俺たちの知ったことじゃない・・・」とにかく介護であれ福祉関係で人を頼むことは実際に金で買うことはできないものだった。そういう人はなんらその家や人に対して助ける動機がない、ただ金だけだからへたすると財産全部もっていかれる。この姉妹も社会経験がないお一人様でないにしろ二人とも同じようなお嬢さんだからそうなった。金が万能社会はかえって非情残酷な社会になっているのだ。人は人に対して金を求めてもあわれんだりは決してしない、これだけは胆に命じておくべきである。親切にしてもそれは上辺だけであり求めるものは金だけになっている社会なのである。金だけが万能になる社会は無縁化社会であり非情無情が残酷に貫かれる社会である。今の日本人は昔の日本人とはまるで違う。金が極端に万能の社会に育っているからだ。でも金が万能と思っていた社会でも実際は金ですべては買えない、特に人は買えないのである。信用などは即席には買えない、だから家の中で働かすことは簡単にはいくら金を払ってもできない、信用を作るのには時間がかかるからだ。お一人様とか単身者がふえる社会はこのような悲劇が続々起こるのかもしれない、自分もその一人だったから痛感して行く末が恐怖になった。


亨保の飢饉では、道路上に行き倒れて死んだ者が数多くいたが、その中に、立派な身なりのまま餓死していた男がいた。男の首には100両もの大金が入った袋が懸けられていたという。つまり、この男は、大金を持っていながら、一粒の米さえ買うことが出来ずに餓死に及んだのである。


金は万能ではない、この時もはやいくら金があっても金は通用しない、金が通用しなくなる時が危機の時にくる。普通の時でもやはり身近に信頼する人がいなかったらこういうことか起きる。
この資産家の姉妹には金があっても親身になって相談する信頼する人がいなかったのである。そしてこの人だけではない、家族がいないとそうなりやすいのである。家族は最後に頼りになるべきものだからである。特に無縁化社会では他人は金だけを求めてくる。すべてが金の亡者である。金の計算しかしていない、それ以上の付き合いはしにくい、だから最後病気になったりしたら家族がないということは本当に悲惨であり悲劇になる。だから結婚しないと家族はいらないというのは最後にどれだけ悲惨になるか現実として身近に感じないからである。自分もこれまではそうだった。だから今になると本当に家族がいないことは悲劇であり恐怖なのである。
つまり金をもっていても餓死する。誰も助けてくれないということで現代でも共通していたのである。現代は食料はありあまっていても無縁化社会だかこそ互助社会ではない、身近に頼る人がいない、信頼する人がいないからこうなるのである。

posted by 老鶯 at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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