小田原城帆影の見るや春の海
東海道春光まぶし望む海
東海道商家の多し燕来る
東海道道まっすぐに燕来る
紅梅や東海道に望む海
伊吹山関が原にそ残る雪
関が原越えて近江や春の山
車窓より蓮華の畑近江富士
東海道というと今は旅してもわかりにくい、新幹線は通りすぎるだけであり普通列車でも家ばかりが密集しているのが印象になる。昔の東海道の面影はあるところにある。そこは旧道で細い道になってまっすぐな道がつづいていた。あれだけまっすぐな道が街中を通っているのはやはり東海道である。必ず日本だと道は曲がるからである。東海道の面影が残っていて印象に残ったのは小田原である。城の桜が見事でありそこから海が見えたことである。箱根の山と海が見えるから展望がいいから気持ちいいのだ。その海から品川の方に行く船が帆の船が見えたかもしれない、品川は近いからである。品川には船の出入りが多く浮世絵にも出ている。
東海道は海がまじかなのである。大阪と東京を結ぶ海があった。その海は頻繁に船が行き来する海でもあった。そこが東北の海とは違っていた。でも東海道は海にそってあったとしても今は電車で行っても海はそんなに見えないからわからないのである。結局断片的記憶しかここも残らなかった。その記憶をつなぎあわせてまた俳句の連作十句を作った。俳句でも短歌でも一つだけではものたりない、連作になると活きてくる。俳句は連句とかで成ったものであり一句では俳句にならなかった。芭蕉の句も紀行文であり連句として読むべきであり一句一句では深い鑑賞はできない、連続したものとして価値があるのだ。そもそも地理をみるときある一地点だけを見たってわからない、棚倉の詩を出したがあれも福島県の全体の地理がわからないと鑑賞できない、そのポイントは奥の細道から東北の幹線道路からはずれた所に意味があった。水郡線というのも不便なロ-カル線でありかえって旅情がでてくる。芭蕉の通った道は今や東北では繁華なところでありとても奥の細道からほど遠くなってしまったからだ。
東海道は車が多いから当時をイメ-ジできない、でも春になると北より南の方に向かいたくなる。春はやはり南から来るのだし南にひきよせられるしそこには日本の歴史の栄があった所でもある。地理的に関が原は春でもまだ寒いから雪が残っている。そこに伊吹山がありヤマトタケルがそこで死んだの象徴的である。日本の国を二つに分ける所で死んだからである。蝦夷征服の英雄が東北の蝦夷の地から帰還して伊吹山で死んだのである。そこから開けた西国が近江-京都-奈良が望める地域だったのである。地理が歴史を作っていたのである。新春の俳句として前に作ったものもあったが出してみた。
春爛漫小田原城
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