新年の教訓-今の人と昔の人の名言
老成というものは多分、懸命に道を貫いてきた人にだけ現われる実りの季節の事なんだと思います
音楽家や芸事の人に限らず、一心にひたすら極めようとした人ならば
文筆家や研究者なんかも最晩年の著作がとても深くて味わい深いものになることが多いんじゃないでしょうか。
--- インタ-ネットの無名の人-----
人間は誰でも年をとる。年をとることがただ馬齢を重ねることが偉いことにはならない、それは生理現象であり年をとったから年齢が上だから偉いとはならない、価値あるものとはならない、
人間は年取っても何かしら追求してきたものがありそうした一芸を極めるでもいい、そういうことのために年とることが意義あることでありただ年とるだけでは価値あるものとはならない、高齢化社会で老人が嫌われるのはただ年をとるだけでありただ長生きすることが目的化している人が多いのである。一日でも生を伸ばす執念のみがある。もちろん早く死にたいと会うたびに病院で寝たきりの人もいる。死にたくても死ねないのが現代である。人間が長生きするだけでは価値がでてこない、人間は何かを価値あるものを極めてゆくからこそ年取ることに意義がでてくる。老成とはただ年取ったから老成して大器晩成とかなるわけではないというのは確かである。前にも書いたけど大器晩成とは才能がなくても積み重ねて努力していけば遂に老人になればそれなりのものになっているということだった。ただ漠然と年取るだけでは大器晩成にはならないのである。
他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎むは貧欲、恐るべきは奢り。
小林一茶
家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり。
(家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である)
千利休
小林一茶の俳句は貧乏のどん底から生まれている。だから芭蕉とか蕪村のような高等なものがないからこれは俳句ではないという人もいる。でもこういう言葉を残していることはやはり小林一茶という人も偉かったなと思う。あんなに貧乏のどん底を生きてきた人がこんな言葉を残しているのは意外であった。なぜ感心したかというとこの正反対の人が今は多いからである。前にも書いてきたけど絶えず他者を羨む人ばかりなのが現代である。昔の人は今の人と比べたら今の人の貧乏人とは比べることもできないくらい貧乏である。食べれればいい腹一杯食べれればいいというだけである。今の人間の欲望は無限であり決して満足にはいたらない、どんなに貧乏でも江戸時代からしたら食べるものでも何でも豊なのである。人間とは今や貧乏というものを理解しない、自分も理解しない、そもそも貧乏はあってはならないものになっている。モノがあふれているからそのモノも買えないということはもはや耐えられないのだ。小林一茶は俳句などで富裕な町人と接していた。パトロンになった人もいた。でもたいがい富者の家に行けばその生活の相違に必ずうらやみ、身の貧しきを嘆く、そしてそれだけではない、そこから犯罪までになるのだ。それが一般的である。現代人は日本人はもっとみんなが貧しい時代より卑しくなっている。貧しく清く正しく生きるなどということはほとんどない、絶えずなぜあいつだけが金があるのだとかうらやむことしかない、民主主義によってさらに不満を言うことこそ抗議することかそ正しいということになり毎日自分より豊かな生活している人をうらやむのが正しいとなっているのだ。
例えば富者をうらやまずというとき富者がいくら貧乏な人にあわれみ恵んだりしても今の人は感謝などしない、なぜあそこの家では高いものばかり食べているのだ、なぜいい車とかもっているのだとかそういうことしかない、まず感謝する気持ちなど全くない、もらって当然でありむしろ奪うべきであり金持ちはあってはならないものだと思っている。それは不公正であり金持ちは貧乏人と同じく鳴くべきだと思っているのが普通なのである。金持ちは否定されるべきものでありもはやあってはならないものでありだから革命であれ殺してしまうべきとさえなったのが社会主義革命だったのである。金持ちがいて自分たちもいづれあういう金持ちになりたいから働くとかならない、それより金持ちから財産をとりあげるべきだとなったのが社会主義革命だったのである。だから小林一茶の言葉は本当に意外だったし本当に昔の人は貧乏でもこんなふうに考えるのは偉いと思った。今は貧乏そのものが否定されている。貧乏でも心ゆたかに生きるということがありえない時代である。みんなが貧乏な時代のとき人間の心は貧しくなっている。だから昔の人は貧しく生きていても心がねじまがらない、他の富者をうらやまないというのは本当に今から比べると高い境地であり聖人のようにさえ思えてくるから不思議である。小林一茶には今までそういうことを感じていなかった。ただ貧乏を嘆いて俳句を作っていた人だと思っていたのである。人間の価値は時代によって違う、今の時代からするとそんな貧乏でもこんなことを言っていたとあらためてその人間の偉さに気付く、そして今の人間はなんなのだ、こんなに心貧しい人間になってしまったのかと驚くのである。現代こそ貧しくても清く正しく生きることが一番むずかしいことになっているのだ。そういう人はもはや過去に探すほかない、今にはなくなっているからだ。戦前生まれでも七五才以上の人はまだ貧しくても清く正しく生きていた人が多かった。七〇以下はアメリカの物欲一辺倒の資本主義に毒されすぎてしまったのが日本人だったのである。そういう価値観が当たり前であり欲望でもはや昔の人の清貧とかの価値観を見出すことは至難な時代なのである。
現に偽っている快楽を偽りと感じ、まだ味わわない快楽の虚しさを知らないところから移り気がうまれる-パスカル
これもまさに前にも書いた餓鬼地獄になっている欲望の資本主義をいいあてている。これほど食料でもなんでも快楽が満ちている社会はない、でももっと快楽がある、欲望を充たすものがある、もっと欲しい欲しいと限りなくグロ-バルに欲望を充たそうとしているのが現代である。この菓子はうまい、しかしもっとうまい菓子はほかにある、我が市になくても大きな都会に行けばあるし世界ではもっとうまい菓子を食べている、ケ-キを食べている。まだ味わわない菓子はいくらでもある。毎日料理番組で放送している。だから今の菓子はうまいにしてももっとうまいものは味わわない菓子はいくらでもあると移り気になっているのが現代なのである。目覚めた時からもっと欲しいもっといいものがうまいものがあるはずだという心になってしまっているのだ。これで充分だなどという人はいない、あなたの欲望はまだ充たされていないと絶えず宣伝されて欲望が刺激されるのも現代である。こうして欲望の餓鬼地獄化しているのが現代である。その歯止めがないのである。だからどんな金持ちでも充たされないのである。
世界的グロ-バルに欲望を充たすことは不可能だからである。アメリカ流の欲望の餓鬼地獄化した資本主義には歯止めが必要である。人間のモラルは低下して犯罪してまで欲望を充たすことがいいのだとさえなっている。これほどまでに欲望が制限されないことは危険な状態になっている。江戸時代から戦前までは貧しいから結果として欲望が制限されていた。現代は欲望は制限されない、欲望はますます激しく刺激されるし消費しないことは悪いことだとなりモノ余り時代に欲望を制限することが悪だとまでなっている。そうなると金のない不況下でもモノ余りだから金のないものは犯罪してもモノを手に入れろとまでなる。万引きはとまらないし大きな盗難もふえてくる。欲望に歯止めがかからないから犯罪してまでも欲望を充たすことが肯定されるまでになっている恐ろしい時代になっているのだ。
今あるものに満足し感謝することからはじめる
(欲望の歯止めがなくなる社会の危険)
http://musubu.sblo.jp/article/42277249.html