2010年12月30日

人生の最後に残るのは思い出だけだ


人生の最後に残るのは思い出だけだ


人生の最後に来るものは何なのか?「さみならだけが人生だ」というのも真実である。みんな結局は別れてしまう。死ねば永遠に別れてしまう。その中で最後に残るものは「思い出」なのである。そして一番思い出に残るのは互いに愛した思い出なのである。だからこそ愛する人が死んだときいつまでもその人のことが浮かんできて忘れられないものとなるのだ。

人生とは最後にならないと老人にならないとわからないものがかなりある。ええ、こんなことが大事な価値あることだったのかと老人になって気付く人が結構多いのである。自分もそうだし人間は本当に価値あるものが何かわかって生きていないのである。金がこの世で一番大事なものとして生きるのが普通だがでも金で買えないものに老人になると気付くのである。

例えば「時間」「愛」「信頼」・・・・何かそうしたものは金では買えない、愛とか信頼も実際は長い時間の中で育まれているのだ。最近介護とかで困りヘルパ-とか手伝いとか普通の家で働いてもそれは昔のように金持ちの家で長く働いている人と違うからまるで信用できない、一時アルバイトのように雇う人は本来信用できない、信頼は長い時間のなかで作られてくるし愛も一朝一夕に愛を得られるわけでもない、つまりこういうものは即席でいくら金を出しても買えるものではない、そこに老後の誤算があった。確かに金があれば設備のいい老人ホ-ムに入れる、でも介護の問題は人間のサ-ビスを受けることでありこの人間のサ-ビスに愛が必要なときそれが簡単にできない、全然知らない人に愛をもちうることはなかなかできないからだ。家族のように料理するにも愛が加わっているのといないのとは差が大きいのである。つまり家族の愛のようなものは金では本質的には買えないのである。その中で愛をもって働いていている人はいる。でもそれは極限られた少数の人である。あとは金をもらうから働いているだけである。そもそも介護とか福祉関係の労働は他のモノを作り売るとかの仕事と性質が違っている。直接人間に対面的にふれるということなのだ。モノを単に売るとかと違っているためである。

いづれにしろ老後の誤算をこうした愛が必要なものを金で買えると思ったことである。老後に必要なものは意外と金で買えるものではない、老人が望むものはもはやモノを買うことではない、

親切な一言とか愛とかである。そういうものは意外と金で買えない、金でも何でもやってもらえるとはならない、元気な内は金があればいいやと思っていたが現実に老人になって病気になったり体が弱ってくると違ってくるのだ。確かに以前として金の力は大きいが金で買えないものが老人になるとわかるのである。老人になれば友情とか愛とか信頼とか作ることがむずかしい、なぜならそれを育む時間がなくなってしまうからである。夫婦だって長い時間かけて夫婦になるのだろうし家族もそうである。そういう時間がないことが致命的だった。家族のような愛とか信頼あるものは老後から作るのはむずかしいのである。


今年も終わりだけど今年は自分にとって人生最大の災難の年だった、でもここ五年間は災難つづきだったし今もつづいている。自分も病気になったことが痛かった。結局一番恩恵を受けたものに一番の災いを受けたことになった。家ががたがたになり維持できなくなった。家の崩壊だったのである。これもまた自分の家の運命だったのだろう。それぞれの家には運命があるのかもしれない、お前の家は祟っているとかカルト宗教団体で言うけどそのカルト団体でも同じなのである。自分よりもっと不幸な人がいたり祟れたとしか言えないような人が集まっている。そして改善もされないのである。だから他者の不幸を言うよりは身内の不幸をなんとかするようにすればいいのであり他者のことをとやかく言う資格もないのである。


老いては思い出が宝 
http://musubu.sblo.jp/article/42310202.html
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