2010年12月27日

今あるものに満足し感謝することからはじめる(欲望の歯止めがなくなる社会の危険)


今あるものに満足し感謝することからはじめる(欲望の歯止めがなくなる社会の危険)

現代の人間の問題は欲望の歯止めのかからない肥大化なのだ。江戸時代あたりは欲望の歯止めがかかっていた。それは簡単に自分の住んでいるところから遠くに移動できないことにあったのだ。豆腐でも遠くにうまい豆腐があっても近くの豆腐屋に行って買っていたのは美味い豆腐があるからと簡単に今のように車で移動できないからである。そこで欲望に歯止めがかけられていた。今では欲望に歯止めをかけるものはない、世界の果てまで何か欲しいとなったら出かけてゆく。美味い豆腐があると言えば遠くまで平気で買いにゆく時代である。そうすることは近いということが意味をもたない社会で近隣で相互にかかわりあう社会はなくなった。それはいい面があるにしろ欲望に歯止めがかからなくなるのだ。だから世界中からうまいものを輸入するようになる。今になるとそんなに他国から食料を買わねばならないのか疑問である。国内だけで十分じゃないかともなる。そもそも資本主義が修道院の禁欲の労働からはじまったとするとそれは労働が奉仕であり他者を助けるためにということからはじまっていた。消費という観念はそこになかったのである。現代は消費のための資本主義でありそれは無限の欲望の拡大化である。それはグロ-バルに欲望を拡大化することである。そこに欲望の歯止めがなくなる。ますます金が万能となり金が世界を動かすことになる。現代に必要なものは欲望に歯止めをかけることである。


そのためにはまず今あるものに満足して感謝することからはじめる必要があるのだ。今あるもの与えられたもの満足しないもの、感謝しないものはさらに欲望が肥大化してゆく、つくづく人間の欲望はきりがない、例え一億円もっていようが広い土地をもって財産があっても人は満足しない、もっとほしいもっとほしいとなるのが人間である。金でも今ある金で満足している人は誰もいない、一億円もっていてももっと欲しいと思うし人間の欲望は切りがないのである。今あるものに満足している人は富者でもいない、誰もいない、もっと欲しい欲しいとなる。人間何かしら持っているものがある。金でなくても家族がいるなら孫がいて娘息子がいればそれも財産である。家族がない人から見るとそうなるのである。いくら金があっても家族の代わりにはなれない、そを身にしみて経験したから家族のある人はうらやましいとなるが家族などだれでも持っているじゃないか、できの悪い家族もったらかえってひどいとかなる。でも家族は家族であり他人は家族の代わりになれないのだ。そして家族は簡単に作れないのである。時間がかけて家族も成り立つからである。とにかく新しい貧乏の時代でも今の人は食べるものでも恵まれている。米が食べられなくなるということはありえない。それもうまい米が食べられる、農家でさえ戦前は粟と稗をまぜて食べていた。今は貧乏でも感謝するものがあるのだ。米が食べられるからと感謝している人は誰もいないのが現代なのである。欲望が肥大化した現代では決して今あるものにまず満足して感謝するものはほとんどいない、もっとほしいもっとほしいと欲望は限りなく肥大化するのだ。


何らかの事件は今も昔も人間の欲望から起きてくる。現代の欲望はグロ-バルに拡大化ししているからますます無限大になっているのだ。消費しろ消費しろというとき欲望を充たせ充たせと常にあおられてもいるのだ。禁欲からはじまった資本主義が限度のない制限のない欲望の資本主義になっているのだ。欲望を充たすためには他者を蹴落としてもいいし競争に勝って欲望を充たすためには必死になる。そこには「禁欲」にはじまった資本主義のモラルは全く逆転してぎらぎらの欲望を充たすだけの資本主義になっている。そして人間の欲望は決して充たされることはない、それは餓鬼地獄になってしまう。餓鬼地獄の資本主義になっているのが現代なのである。欲望に歯止めをかけるのが仏教でもそうだしキリスト教でもそうだった。でもカルト宗教団体は御利益を求める現世の欲望を達成するための宗教である。ここには欲を制限する抑えることはしない、煩悩即菩提だと煩悩はかえって強い方がいいのだとかエネルギ-がある証拠だとなって個々の欲望達成のために集団で祈っているのは異常である。


ともかく自分にはまがりなりにも小さな家でも家があるとか満足している人はいないな、あそこの家は立派だとかあんな家が欲しいとかそうして他者を羨むことが常態になっている。いい車を見ればあいついい車もっていていいな俺も欲しいとかそういう比較が常に行われている。俺もあんないい車ではないが中古車だがこれでもまにあうよとか思う人はいない、そもそも車もない人もいるのだから車もない人よりいいとかも思わない。常に他者を羨むのが現代なのである。
もちろん健康である人が健康なことに満足して感謝している人は一人もいない、そんなの当たり前じゃないかとなる。でも健康でなくなった人から見ればそうではないのだ。人間は今あるものに持っているものに感謝している人は誰いない、あれがたりない、何かがたりない、もっと欲しい欲しいとその目はぎらぎらとデザイア-(desire)が強いのである。結局その欲望をすべてかなえるのが金だから金に対する欲望に集約されているのが現代なのである。これはやむをえないにしても人間は一億円持っていても満足しない、金に対する欲望もきりがないのである。

金のもっている資産家にはそうしたデザイア-(desire)の強い人ばかりよってくる。ぎらぎらした欲望の人がよってくるから危険であり嫌になる。貧乏でも困るが貧乏だったら金がないならそうしたぎらぎらした欲望の人はよってこないという利点はある。とにかく現代は欲望に対する歯止めが必要なのである。そのためには社会全体でも個々人でも今あるものに満足して感謝することからはじめるべきである。すでにいろいろたりているのにあれがたりないこれがたりない社会でもっと欲しい欲しい消費を拡大化しろとか言うのは欲望が制限できないものにますますなるのだ。そんなことしたら景気が悪くなるというが景気が悪いとしてもやはり日本では他に比べて満足して感謝するものがある。食うや食わずの国もある。つまり今あるものに満足して感謝しないものは欲望の餓鬼地獄になる。いろいろ不満があってもそこから出発しないと人間の欲望はきりがなく危険なものになってゆくのだ。



今あるものに満足し感謝するためには現代では自ら強いなければできない、
私にはこれがある、これでまず満足だ感謝するとかならないと欲望は抑えられない
一種の訓練をしないとできない、そうでないと不満ばかりになってしまう。
そういうふうに強いて訓練しなければならないほど欲望で見えなくなっているからである。
ある程度自己自制しして「禁欲」の業をするほかないのではないか?
「禁欲」が強すぎると守れない、でもその人なり今あるものに満足するものを見出し感謝することからはじめないと欲望の餓鬼地獄になってし
まう。

私にはこれがないこれがない、私にはこれがあるとか言う人はいない
これがない、これがないとそのないことばかりが声高に叫ばれる
そうなると不満だらけであり欲望に歯止めはかからない
頭の中がこれがないこれがない→あれがほしい、これがほしいとなる
そういう頭の構造を変えない限り欲望に歯止めはかけられない
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