年の暮に 一人掃除する
我一人掃除をするもあわれかな
まことこの家を清めるは我のみなりき
掃除とて心こめられずばなせず
何を成すにも心ありてこそなり
心なければなべて汚すものとならむ
我が家に一人今年も暮れむ
しかし、その聖なる家庭の中を、じっさいに「手を使って」清めているのは、われらが召使いです。礼拝堂を掃き清める信者のように、召使いは室内の床をはき、磨く。
目立たず、ひっそりと。控え目に、勤勉に。
わたしは、「召使いこそが、家庭の神聖性を体現している」と思うのだ。
「執事たちの足音」
http://blog.goo.ne.jp/countsheep99/e/60b08f650005074efba2f2c0d7438724
ここのプログは価値ある。なぜならこんなテ-マで書いている人はまれだからである。こういうのがインタ-ネットでは価値ある。一つのテ-マにしぼって書いているから価値が出てきているのだ。そしてこういうテ-マを扱っているのは少ない、プログで価値あるのはこういうものになる。
召使を主題にしたのが最初の小説だったというのも召使が極めて人間的な仕事だったからである。日本でも昔は家で働く女中が多かった。なぜなら家事の仕事があった。電化されていないから家事自体が大変な労働だったからである。セ-ヌ川で洗濯している女性たちの絵が残っているように洗濯自体大変な仕事だったのである。
でも今は執事とか召使とか日本でも家の中で勤める女性は激減した。貴族階級が消失したからである。戦前はまだ家事が仕事としてあったからそういう人たちは大勢いた。今はよほどの金持ちの家でしか需要がなくなった。それに代わりヘルパ-とか一時的なお手伝いさんとかが仕事として介護関係などで需要が生まれたがこれは最近のことでありこの人たちは一時的な賃金労働でありほとんど何かモラルが皆無である。金をもらい時間給でやるだけである。昔だったら奉公するとかのモラルがあった。そのモラルとか信頼は一朝一夕には作れない、一〇年くらい働いていると信用が生まれる。一年くらいでは生まれようがないのだ。今家に入ってくる人は昔のように長くいる人ではない、一時的だからこそ信用が作れないのである。また人を使いなれていない普通の家だから人を使うことがどういうことかもわからないし使われる方もただ金になればいいとなり問題が起きる。
この世には別に機械的にやってもいい仕事はいくらでもある。そういうのは別に気持ちが大事とはならないだろう。でもやはり人間は機械ではない、何かしら気持ちがないと働くことができない、今の問題はみんな働く気持ちがない、すべて金であり賃金労働者になってしまった。資本主義が実は宗教的動機が基になっていたということを説き明かした学者もいる。プロテスタントの宗教倫理が働くモラルを作り出した。現代の大きな問題は働くことのモラル、倫理が金だけであるとき汚される。特に家庭内で働くとなるとその家に深くかかわるから危険なのである。ともかく働くということは奉仕するとか何かモラル、倫理がないと人間は働けない、もしそういうものがなければ働いてもらうにしても非常に危険なことである。でも実際はモラルなき倫理なき労働が普通でありそこに現代の大きな問題がひそんでいた。
昔の方が封建的だとかなんとかなるがそこでは家族並に扱われて奉公していたとか何かモラルが倫理が生きていたのである。それが雇う方でもまるで奴隷なみに扱っているのがかえって豊かな現代社会になっている。だから働く意欲もそがれる。働くということは人間の基本でありそこが一見豊になってもその根底のモラルが崩壊しているとき社会そのものの崩壊につながってくるのである。人間は奴隷でもないし機械でもない、モラルなしで心なしで気持ちなしで生きられないものであることを示している。人間をモノのように機械のように使い捨てにされたりするのも反発をくらう、そういう労働の仕方が蔓延するとき社会はまた荒廃してしまうのである。現代の派遣とかフリ-タ-とかパ-トとかそうした時間を切り売りした労働や人間扱いしない労働は本当に社会を荒廃させてしまっているのだ。これはかなり深刻な問題であることに気付いていない、モラルを培えるものが社会になくなっているのだ。