2010年12月23日

福祉関係の仕事は移動型社会より定住型社会に向いている


福祉関係の仕事は移動型社会より定住型社会に向いている

移動と定住を考えると江戸時代は定住型であり安定していた。人々の信頼度も高い。そこではすべてが金ではない、金の力がすべてではない社会である。


みんな貧乏だった時代の話は、逆に豊かな時代を表している
http://tsunoken.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-26f5.html


今日のように金が万能となった時代には金だけがすべてではない社会を想像しにくい、金を通じなくても協力する何かがあった。金で雇わなくても無償の労働があった。あなたに助けてもらったから助けてやるとか相互互助関係があった。特に農家では今のように機械力ではないから人力で仕事していたから田植えであれ互いに協力して農作業をすることがあったからそういう互助関係があった。結いとかの労働も金で雇う労働ではない、金抜きで協力し合う労働である。それは代々一カ所に定住して生活しているからこそそれが慣習となって行われる。人間が協力するというとき定住していないと本質的にできない、都会のように隣が何をする人ぞとかなるとなかなかできないだろう。絶えず人が変わるときも協力はしにくいだろう。信頼関係も築きにくいのである。江戸時代あたりだと何代も家がつづき継続している。そういう関係の中で協力や信頼関係が築かれてきた。農家は三代つづかなければ認められないというのは本当だろう。
農業や林業はそうした息の長い仕事の性質があったからである。


現代は移動する遊牧民的志向になっていると書いたが移動が激しく流通が激しい文明である。だから小さな町の経済活動は極端に縮小化する。車で外へ外へと大きなス-パ-に出てしまうからである。一カ所に留まる必要はない、生活の範囲が拡大化してゆく、村のような小さな閉ざされた世界で活きる必要はない。それはそれで自由であり活動範囲が広がりいいということもある。いちがいにそうした移動する社会を批判はできない、でもこれが福祉などの面から考えるとマイナスなものとして働く、狭い範囲であれ移動しないで協力して暮らしていたなら福祉関係ならうまくいく、そもそも福祉には賃金労働だけではない、何か無償の動機が行為が必要とされているのだ。認知症になっても回りが理解があれば見ていてくれるから安心だとかある。でもそうしたことは日頃から何か協力関係ないならスム-ズにはできないのである。


そのことをつくづく感じたのは今は外から家で働いてもらうときである。ヘルパ-であれ手伝いであれ何か家の中で働いてもらうとき病人の世話であれ高齢者の世話であれこれは福祉的労働だから金だけではうまくいかない労働である。やはりずっと長く移動しないで住んでいてあのおばあちゃんは子供のころから知っているよとかなるといい、村が大家族のようになっているとやりやすいのである。手伝いさんなども家の中で働いてもらうには昔の金持ちのように長く働いているならいいが今は信用できない、田舎でも信用できない、デイサ-ビスでも何でも盗まれとか信用できない、信用関係がないのである。日本で働くというとき端を楽にすることからきているからこれは狭い範囲での労働を見ていて少しでも労働の苦労を楽にしたいと思うからそうなった。それは狭い世界でのことでありこれが賃金労働になるとその動機自体が全く違ってくる。とにかく金が欲しい、もっと金が欲しいしか動機に頭になくなった。働く動機は金しかないのだ。これは明らかに福祉関係では向いていない働き方なのである。


今はこうした江戸時代のような地域社会が崩壊した。田舎でもそうである。金万能な時代が極限まで拡大化して世界中を席巻した。金意外で何か協力し合うことが非常に困難になった。田舎でも今は金の力が大きいから人間の関係は金を通してしか作れない社会になった。老人の施設で働く人も動機は金しかない、老人をあわれみ愛をもって接しなさいといってもそれは普通はなかなかできない、普通にそうした協力関係ないからできないのである。福祉関係ではどうしても動機が大事になる。その時みんなに宗教的高い動機を要求するのは無理である。結果的にはここもやはり金だとなる。つまり福祉関係は江戸時代のような金だけではない日頃から協力関係があるときうまくいく仕事なのである。現実に端を楽にするとして大家族で人手があまった人が病人の介護のようなこともしていたのかもしれない、そういうことがしやすい社会だからである。現代は移動社会でありそういう関係が築きにくい、農民的定住社会ではない、金さえあればあらゆる用はたせる、福祉も介護も病気になっても金だと思っている。


でも福祉関係はそもそも互いの協力とか人情がある社会だと機能しやすかったのである。金だけでやってもらうとすると問題が起きてくる。実際に他人の家に来て何か目ぼしいものがないかと盗むために探しながら働いている人には安心できない、でも現実は田舎でも本当にそういう人が多くなった。目的は金しかなくなったのである。日頃からそもそも協力関係がないのだから金しか働く目的はなくなったのである。だから全く油断できない信頼できない、安心できないとなってしまった。かえって金だけ働く人はもう信用できない、動機がそれしかないからだ。人間はモノをやるにしても単にモノを与えるのではないそこに心がこもっているときモノも生きてくる。でもモノを与えるときただ義理で返すだけだとか何か心がこもらなければモノも活きてこない、そういう心のこもらない贈答が多くなった。母親が手編みで子供の着るものを作っているときそれは粗末でも心がこもっているから温かいとなる。そういう労働自体がない、金で買えばいい、金があれば何でも買える、金がないから子供にも何も与えられないとかなっているのが現代なのである。すべてが金の原因にしているしなっているのだ。

金だけがすべてとなるときそこは殺伐とした社会である。江戸時代は貧乏でもそれを補うものがあった。過去を理想化するのは危険だけど人間は便利になり豊になってもモラルとか後退するしすべてが良くなるとはならなかった。江戸時代が見直されるとき現代が失ったものが逆にそこにあったからである。いづれにしろ人間は本人が困らなければこうしたことに気付かない、自分も別に他人と協力しなくてもここ何十年は困らないからそんなこと真剣に考えなかったのである。しかし一旦困ったとき深刻に考えるようになった。誰も助けがない、助けられようとしたらその人は金だけで雇う人だからひどい目にあった。

金だけでは人は協力しあない、協力しえないものだとつくづく思った。雇う人も雇われる人も金だけは協力しえないのだ。金意外の動機がないとき福祉関係は特にうまくいかないのである。

安心だとか信頼だとかは本当に金だけで得られるものだろうか?現代は得られると思っている。金があれば豪華な施設にも入れる。金のない人は入れないとかすべてが金で得られる。ある大金持ちが田舎に大邸宅を建てて住んでもでも都会ならいいが田舎だといろいろ寄付したり田舎のためにすることをしないと協力はされないだろう。また金だけばらまいても信頼と尊敬が生まれるとはかぎらない、信頼ある、安心な社会とは江戸時代のような相互互助社会であったかもしれない、あくまでもそれは想像にすぎないがそういう社会の方が安心はあった。何かあったら助けてもらえるとかなるからだ。金さえあれば何かあったらすべてまかなえるという社会が果たして安心なのだろうか?
それでアメリカでは女性を裸にして家で働かせるというまでになっているのだ。そんなふうにしてまで働かせるとなると働かせる方も心が休まらないのである。安心できないからそんな社会がいいとは思えないのだ。ただ現実的問題としてどうすればいいのかとなると具体的にはわからないというのが現状である。それほどに金の力が大きくなりすぎたからもはやそれ意外の社会自体考えられなくなっているからだ。


 

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/42211219
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック