2010年12月18日

人権過剰で被害者はやられ損、償いもなにもされない


人権過剰で被害者はやられ損、償いもなにもされない

日本という国は
犯罪被害者の
人権、
名誉、
財産を
無視しています。


逆に加害者の
人権、
財産を
守っています。


2年前に傷害事件にあって
刃物で傷つけられて
現金3百万円を盗まれました

加害者は2ヶ月後に釈放されて
今まで一切の謝罪ナシ


加害者は大阪保護観察所には
被害弁償など誠実に
実施しますと述べていますが
8ヶ月経っても何もありません
盗んだお金も生活費に使用したと
嘘を言ってます。


被害者の会も現行の法制度を
嘆くだけで力になりません。
加害者は
税金で弁護士を雇えるのに
被害者は民事訴訟で
自ら弁護士費用を捻出し
裁判をしなくてはいけない。

この質問文を読んで頂いている
人たちへ

日本は
『罪を憎んで人を憎まず』の
ように加害者を保護してます。
警察も逮捕後は
『民事不介入』の姿勢を
崩しません。
先進国の中でも
日本は最低レベルです。
傷害事件にて理解しましたが
日本は被害者になった時点で
人生終わりです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1436145159




この人も気の毒だけど本当にこういうことが多すぎる。被害者を償ってくれるものはない、『罪を憎んで人を憎まず』とか常に加害者側が弁護されている。犯罪にもいろいろあるが被害者は
やられ損であり何の償いもないのだ。人権過剰になり明らかには犯罪したとしても調べることすらできない、それは自分も無実なのに犯罪者にすれば人権を主張する。逆に今度は被害者になると加害者があまりにも人権で保護されることに矛盾を感じてしまう。加害者は強く罰せられないと罪の意識すらもたないこともあるだろう。罪の意識をもたないから何度もまた犯罪に走る。そもそもどうしてこうなったのか?やはり江戸時代のような自治組織がなく自浄能力がなくなったためだろう。村のような狭い所では犯罪はもともと起こしにくいしまた一人が犯罪を犯すことは村にとって非常に重大な問題になる。村人全員の問題であり真剣に対処せざるをえない、村の中でともに暮らしてゆくことができなくなる。
今は犯罪というと一個人が一個人に対する犯罪であるが、犯罪はそもそも必ず周囲に大きな不信とか不安を与えるから実際はみんなの問題なのである。でも毎日起こる頻繁に起こる犯罪に無関心なのは村で起こるのとは違う、遠い知りもしない人の犯罪だからただ面白がってみているだけなのである。でも現実に自分の暮らしている範囲で起こったらそうはならない、非常に深刻な問題となるのだ。だから村のような狭い範囲で犯罪を起きることは重大問題になる。村人全体の問題になるからみんなで考えるようになる。村の中で共に暮らしていけない共同、協働していけないという深刻な問題が生じるためである。犯罪は犯罪を犯すものと犯されるものだけの問題ではない、村全体の問題となる。いくら犯罪を犯したからといってそれを今のように警察だけで処理できるものではない、警察では刑を与えるがまた出所したら犯罪をする、再犯率が高いというのもやはり犯罪が共同体のなかで処理されていないからである。共同体があれば犯罪者もまた共同体のなかにとりこまれ協働することができる。今は犯罪者に対して排除しかないからまた問題なのである。


そもそも犯罪が警察や裁判官や弁護士などの専門家にすべてまかせて解決することはできない、それで陪審院制度が日本でもできた。犯罪をみんなの共同体の問題として自覚させて処理させるためにそうなった。素人でも裁判にかかわれば被害者であれ加害者であれその人の立場を理解してなぜそうした犯罪が起きたのかと社会そのものを深く考えるようになるからだ。
そこから単に罰するだけではない、自分たちの問題として犯罪者のことも考えるからである。

現代が犯罪にたいして無力なのは犯罪をみんなの問題として真剣に考える共同体が喪失したからである。例え犯罪が起こったとしてもドラマのように面白がっているだけである。でも一旦深刻な被害にあうと犯罪のことが我が身のことになるとまるで違ってくるのである。犯罪者が放置され人権を主張してのさばり被害者は泣き寝入りだというとき被害者も共同体がないからこそ訴えるところがないのだ。みんなに訴えようとしても犯罪は警察や司法機関を通じて訴えるしかない、江戸時代のような仲裁役とか調停役の大家や庄屋や有力者とか何かそうした近くに具体的な頼りになる人がいないのである。ただ警察で解決してくれるだろうとなるだけで専門家まかせで終わりになる。それも犯罪は個々の問題であり自分たちに関係ない限り無関心だからである。もし狭い村のような所で犯罪が起きたらみんなに深刻な影響を与えるからこそ犯罪も自分たちのこととして考える。それが警察や司法機関しか犯罪にタッチできないからこそ結局被害者は無力感にさいなまされているのだ。


この人の例もべつに自分は金を損したわけではない、自分たちの問題ではない、そんなことにかかわる必要はないとなる。こっちにすぐ被害にあうわけではないとかなる。でも本当はもしこういう被害を与える人がいれば近くに住んでいれば平安は乱される。人権で保護され罪を犯しても謝罪もない、反省もなく近くに住んでいれば回りの人も困ったことになるのだがその対処の方法がないのだ。それを訴えるのは警察や司法機関しかないし町の世話役にも犯罪に関しては人権があり訴えられない、それで近くでも犯罪者はのばなしにされまた被害を与えることにもるなる。刑務所に入ったとしても今度は自分の帰る場所がないと再犯に走るのもまさに犯罪者を罰しても受け入れる共同体もないからである。だから犯罪者を警察で罰して刑に処しても同じことがくりかえされる。犯罪の自浄能力がないからそうなっているのだ。悪者に人権を主張される、ヤクザでも人権を主張してデモしたように人権至上主義になるのも矛盾しているのだ。

法律もまた人権過剰で悪者に有利になるのも当然である。法律は万能ではないからだ。法律や警察や司法機関などにすべてを頼るとき、頼らざるをえない社会では犯罪の問題は解決しない、加害者も被害者も共同体のなかで自治組織で自浄能力がないから犯罪に弱い社会となっているのだ。いくら法律が整備されても警察力を強化しても犯罪はへることはない、犯罪がますます社会をむしばんでゆくのである。

posted by 老鶯 at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/42141358
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック