2010年12月17日

犯罪が増加して止められない相互不信の時代-江戸時代との比較 (無差別殺傷事件の深層)

犯罪が増加して止められない相互不信の時代-江戸時代との比較
 
(無差別殺傷事件の深層)

●人権主義も極端化すると弊害が多くなる


犯罪も時代を象徴しているのだろう。例えば無差別殺人や老人をだます詐欺、逆に高齢化による60代から70才でも犯罪はふえている。高齢化社会だから当然そうなる。老人が金をもっているからそうなる。犯罪は明らかに増大しつつある。そして犯罪に歯止めがかからない、これはもはや都会と田舎の区別はない、田舎の人が素朴だなどというのはとっくになくなっているのだ。80代以上の人には確かに素朴な人がいるが全般的には田舎も現代の時代の影響を受けて変わってしまった。なぜこんなに犯罪が増えるのか?それはこうした時代背景もある。そして歯止めがかけられないのか、それは根本的に社会そのものが変質してしまったことである。もちろん犯罪は常にあった。本質的犯罪として変わらないものはある。男女間の恨みとかは変わらないしそうした犯罪は継続されているから変わらない、その動機は変わらないからわかりやすい、日本に犯罪が少なかったというとき江戸時代ならやはり村という小さな社会で共同体が相互監視役となり抑止力となっていた。犯罪が起こしにくいしにくい体制にあった。厳罰主義なのも背景に犯罪の抑止力になっていた。今なら人権があまりにも尊重されてちょっとした盗難でもよほどの証拠とか確証とかがないと犯罪人にはできない、犯罪者が常に保護され有利になっているのだ。人権尊重のためにそうなっている。江戸時代は逆にこの正反対であり人権無視の詰問で死んだ人が一番多かった。それだけ犯人を割り出すことに熱心だったのである。江戸時代の村のような狭い社会で生きていたら犯罪を起こされると相当に迷惑であり小さな共同体に支障をきたす、もう一つは今のような警察機能はなく取り締まる役人も極端に少ないても自治組織が発達してお上に頼らず村内で長屋などで内輪で問題を解決する能力を有していたのだ。日本の社会はもともと村が基本でありそこでいろいろな問題を村内で解決する能力を有していたのである。そこに調停役がいて穏便に治める役もいた。長老みたいな人がいた。そういう人間の濃厚な交わりの中で犯罪も事前に防止されていたり解決されていた。だから犯罪は少なかったのである。


●犯罪には自浄能力のある自治組織が不可欠


現代はまずこうした村的共同体がそもそも崩壊している。その善し悪し別にして人間としての濃厚な交わりのある社会が崩壊している。村の単位ではない、グロ-バル市場化した社会でありその規模は江戸時代とはあまりに違いすぎるのだ。どこで自分たちは人とつながり社会の共同性を感じるのか?そういうことが極端に希薄化している。隠岐島が今都会の若者が人気だというのもわかる。そこで若者が言っていることはここだと仕事のつながりが見えて自分がどんな役割をもっているから見えるからいいと言ったことでもわかる。大都会では人間のつながりが巨大すぎて見えないのである。島だったらみんなの役割が一人一人の島での役割が見えるのだ。そこで社会が何かとか具体的にわかりやすいのである。現代の社会で村のような共同体が崩壊したときそこに犯罪を抑止することがむずかしくなるのだ。警察があるから大丈夫だというが警察は江戸時代のような自治的犯罪抑止力とはならない、特に現代のような人権主義だと犯罪者をかばうことにもなるのでますます犯罪はこれから都会や田舎の別なくふえてくる。厳罰主義、詰問もされないから犯罪はたやすいものと思ってしまうのも問題である。なかなか犯罪者を追求しにくい仕組みになっているからだ。そうすれば犯罪者はますますふえてくるし抑止力となるものがない、江戸時代は人間が抑止力になっていたが今はない、それに変わったのは監視カメラだがこれも抑止力には限界がある。実際共同体が崩壊することがいかに社会に甚大な影響を及ぼすかそのことを真剣にみんなで考える人はいない、そもそもみんなで考えるようだとなんらか犯罪の抑止につながるものが生まれはずである。犯罪は共同体にとって深刻なものとして共同体を破壊するゆえに深刻なものだという認識がうすれてしまった。江戸時代の方が犯罪に対して厳罰主義だったりまた人間の相互監視力で抑止していたのとは正反対の社会である。それは問題にあるにしろ江戸時代の逆になって極端化したのが現代である。人権を余りにも尊重すれば詰問など絶対にできない、調べることさえ人権無視になるからできなくなる。それはそれとして冤罪をなくすからいいとなるがそれが極端化しているからこそ犯罪がふえてくる。犯罪の抑止力となるものがますます喪失してゆくのである。


●警察機構に頼るだけでは犯罪の抑止力にもならない


現代の犯罪の無差別殺人や殺傷が「誰でもいい、もうろぶれかぶれだ、誰かを殺して人生終わりにしたい」とか言うときまさに特定の人間の恨みではない、濃厚な人間の交わりのない社会だからこそ犯罪の対象はだれでもいいとなる。それは江戸時代や戦前から戦後まもなくまだ共同体が街でも村でも機能していたときはそうならなかったのである。誰でもいいというとき誰とも交わりがない、誰かがおさえてくれる、説きふせてくれる、かかわってくれる人がいないということにも通じているのだ。それは子供時代からであり教育でも相当に変わってしまったのだ。回りの人が近所の人が子供に干渉しないかかわれない時代である。大人の共同体そのものが喪失してるからそうなったのである。共同体の喪失がいかに深刻な問題だったか今になり犯罪の増加などにより明確化したのである。


グロ-バル化してもグロ-バルな共同体など存在しない、共同体はやはり人間と人間が顔をつきあわす範囲から生まれ育ってくる。それがなくなったとき犯罪の抑止力や犯罪を解決する方法がなくなるのだ。そしてますます犯罪はふえてるし相互不信が増幅され社会そのものに安心感がなくなる。警察ではどうにもならない、警察は極めて官僚的であり抑止力にならない、人権主義の壁が大きすぎるためでもある。警察に代わるかつての共同体の長屋の大家や村の庄屋や任侠のヤクザでもそういう調停役がいた。そういう人の方が役にたつことがある。そういう自治的に働く自浄作用の方が犯罪には効果的だったのである。犯罪者を戒める、抑止するものもない、その時どうなるのか?犯罪者はとがめられない、犯罪者天国にさえなり社会は崩壊してしまう。犯罪者の良心に訴えるというのは理想であるが治安はますます悪くなる。もちろん犯罪者を強く罰しても更生しないというのは本当だろう。そもそも犯罪そのものが誰もいましめるものがいないということ子供にそういうことをしていけないとかしたら罰せられるとかそういう人が共同体が崩壊していなくなったのである。警察意外の人で犯罪者に干渉すらできなくなった。そのことすべて警察にまかせることになるがその警察も犯罪者を全部とりしまることはできないし抑止力にもならないのだ。やはり人間社会は自浄能力がなくなるとき危機になり崩壊する。共同体は外部から破壊することはない、ロ-マ帝国のように何でも内部から腐敗して崩壊してゆくのだ。今は官僚であれ警察機構であれ巨大な組織があってもそれが空洞化している機能しなくなっている。そしてその巨大な機構に頼るだけで自浄能力をもたない共同体では社会はもはや維持できないのである。


暴走する欲望と共同体の崩壊
http://www014.upp.so-net.ne.jp/tor-ks/edu/edu5.htm

posted by 老鶯 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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