2010年12月08日

寒さ

 
故郷の刈田やリハビリ介護かな


死亡欄今日も見にけり冬紅葉


(一つ家に耐える貧しさ寒さかな)


母はリハビリで歩く練習していた。あれだけ歩けるから寝たきりにはならないのか?でも今年一年もたないという人もいる。元気なように見えても突然死ぬのが高齢者であり90才越えるとあっというまに死ぬ場合があるというのも本当だろう。家にいても息が苦しくなっていたから突然そうなるかもしれない、でもすぐに死ぬようには見えないのだ。

田舎では死亡欄を毎日見ている人が多い。最近自分も死亡欄を見ている。別に自分の場合はお悔やみには行かない、沖縄では死亡欄が新聞の大きな収入源であり記事になっている。
死亡欄は大きく扱われている。人間が死ぬことはやはり大きな関心になる。そして沖縄のようなところではまだ親密な関係が多いからそうなる。自分の場合は死亡欄で一番気にかかるのが年齢なのだ。この人は何才で死んだのか気にかかる。毎日見ていると結構60代でも死んでいる人が必ずいる。だから60代で死んでも特別なものではない、それだけ死がまじかな世代でもある。あなたも腎臓など悪くなったから臓器が悪くなると死期が近いとか言われたから死ぬかもしれないと本当に思った。死んでも格段珍しいことではない、現実に毎日60代死ぬ人が必ずいるからだ。還暦過ぎると死がかなり身近なものになるのだ。自分も今や障害者になってしまった。だから一体自分もいつまで生きるのだろうという不安がのしかかってくる。それでいろいろあとのことなど心配してしまうのである。

今日は寒かった。寒いというとき昔ならみんな貧しいから貧しさを共有していたし貧しさの中で助け合うということもあった。金持ちは極少数でありそれは例外的な存在であり一般の人とは関係がうすかった。みんな同じように貧しいと相手をうらやましがったりしない、でも豊になるともし隣がエアコンがあり自分にはないとか格差がでてくると人間は助け合わなくなる。豊かな人を絶えずうらやましがるようになる。だから精神的に穏やかなものとはならない、現代に助け合いがなくなったのは金の力が大きくなり金で手に入るものが拡大化したからである。金が入ればたすけてもらう必要がないとなり金がすべてとなっているからだ。それは田舎でも同じなのである。田舎も昔の田舎とは違う、生活そのものは都会とさほど変わらないし食べるものも変わっていない、みんな贅沢になっているのだ。貧しい時代には想像になるけど貧しさの良さがあったのかもしれない、それはただ貧しさを経験していないからそう思うだけで現実はもっと厳しいものだった。ただ人は豊になったときかえって協力しないとか薄情になるとかはありえる。金さえあれば何でも買えるとか人間さえも買えるとか傲慢になってしまうからである。そもそも人間を買うことはできない、奴隷制があったがアメリカでも黒人を奴隷として買ったが結局人間を奴隷にすることは長続きしない、人間は家畜ではないからだ。


ともかく今年は大変な年だった。年の暮だけど疲れた。こんなにいろいろなことが起きると疲れてしまう。ただ休みたいとなってしまう。いろいろ事件が重なるともうどう処理していいかわからなくなるのだ。事件にふりまわされるだけになってしまう。そういう事件に前にかかわったから今でもそのことが嫌な思い出として残ってしまった。そのことも金の問題から生じたのであり今回も同じだった。金はいろいろな問題をうむ。田舎では例え金があっても極力ないようにした方がいい、その金がたいしたものではないにしろ田舎では目立つことが良くない、車でもあまりにもいい車をもっていると金があるとみられていろいろうるさいことにもなる。別に田舎ではみんな車をもっているのだからかまわないけど特別に金あるような使い方をしては目立つから危険である。田舎ではなにかと目立つとうるさいのである。今や小額の遺産でも親戚で争っているとか新しい貧乏の時代になった。田舎ではさらにその傾向が強くなってくる。今までの豊かなレベルの生活を都会でも田舎でもできなくなる。中産階級が没落していくのだ。現実にそういうふうに今までの豊かな生活を維持できなくなってくる。だからモノが売れないもっと買いとか消費しろという時代ではない、そんな余裕がない、時代が変わってしまったのである。

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