働く動機が金だけになっている危険
他人の為に働かされる 労働はみな、他人の為の行為です。自発的にはやらない行為です。自分の労働力と時間を、他者に利用されているのです。労働者も売春婦も、実は同じなんです。
奴隷との違い
奴隷が合法であった時代には、奴隷は売買対象になりました。また購入後も食や居住といった維持費がかかりました。それを上回るメリットがあったから奴隷は成立 したのです。
現代は月給と退職金です。経済的な仕組みは今も昔も同じです。
働けど働けど我が暮らし楽にならず
奴隷と同じく、その立場ははっきりしているはずです。つまり従う事を前提にしているのです。その根拠はお金が無い事に起因します。
もっとはっきり言えば、不労収得が成立する社会の仕組み上、必ず額に汗して割に合わない就労を強いられる人が出てくるという訳です。
http://psychology.berible.com/machinery/blueworker.html
こういうふうに思っている人は本来働かせるべきではない、ヘルパ-であれ介護の仕事であれ、手伝いという仕事であれ何であれ俺は他人に使われているにすぎない、それも金がないためである。もともと働きたくない、なぜ金持ちの家で働かねばならないのか?金がないからだ。
馬鹿げている。そもそも働く気がない、働いてもつまらない、あの家になぜ自分が働かねばならないのか?金がないためであり働く理由はそれしかない、あんな婆に尽くして何になるのか?ただ金がもらいるからである。それ意外なんの働く理由もないのだ。だからあの婆は金をためこんでいるからうまくだまして金をせしめればいいともなってゆく。働く動機が俺は働かせられている、奴隷にすぎないとなれば当然そうなってゆくのである。働く尽くす相手が金があるなら一気に奪った方が効率的だとなる。その家について何ら働く理由がないのである。金をもらうことしか働く理由がないからである。
一方で逆の考え方も成り立つ、あの家は富んでいる、自分は貧乏だがあの家に勤めていれば福を分けてもらえるだろう。あの家が富んでいることはそれなりの理由があるのだろう。その福と富に自分もあづかろう、あの家に勤めていて嫌だということはない、家の人は親切にしてくれるしいろいろモノもくれるしいい人たちである。仕事も広い庭を掃除したりしてもきれいな花が見られるとかいろいろためになることがある。別にそんなに働くことが嫌ではない、働いていてそれなりに楽しいこともある。富んでいるあの家に尽くしていれば必ずいいことがある。福と富を分けてもらえる、だから気長に勤めていよう。・・・・・というふうな考え方で勤める人もまれにはいるだろう。一般的には前者の方が圧倒的に多い、金持ちの家に来たら自分との生活の差が大きすぎたら特にそうなる。とてもこういうふうには思わないのである。いづれにしろ家はみんな成り立ちも違っていて金持ちでもみんながいい家とは限らない、その家のことはなかなか外からくるものにはわからないしだから嫌でも金のためにはしかたないと働く人が多いのである。
人間はそもそも仕えるものと仕えさせるものに別れる。キリストがまず仕えなさいと弟子の足まで洗った。でも人間はいつまでも仕えるものと仕えさせるものが同じではない、必ず逆転してゆく、仕えたものはやがて仕えさせるものともなる。最初はなんらか仕えねばならない、そのあとに仕えさせるものとなる。人間の立場は一定していない、常に変わるのである。良く仕えて勤めないものはやはり仕えさせるものとはならない、働くことは自分には金がないからであり人のために奴隷になることなのだとして働いているとしたらその人にいかなる労働の歓びも生まれない、ただ労働は苦痛でしかない、金がないから働くのだとしたら働く目的は金だけになってしまう。
働かないことさえ理想だとなる。つまりそういう気持ちで働く人は本当に危険である。それは盗んだ方がいいとかに極自然になってゆく。簡単にそういう方向に向かってゆく、心がそうなっているからだ。
働くというとき家事労働は子供のためとか夫のためとか愛する家族のための無償の労働だった。そこには金だけではない動機がある。しかし外に家事労働を頼むときそうした無償の愛は喪失する、ただ金のために働かせられている奴隷になっている。そういう気持ちで家の中で働くときどうなるのか?ここの家で働かせられのは自分に金がないからだ。この家には金がある。その金のために自分は働かせられている。金さえあればこの家で働く必要などないのだ。この家とはなんの関係もない、金がもらいるから働いているだけである。それ意外の理由は何もない、金の奴隷になっているのが自分なのである。だから金さえあればここの家でも働く必要などないのだ。ただ金だけが目的なのだから遂には金を盗んでもいいとさえなってゆく気持ちになってゆくのである。働く動機が金しかないならそうなって当然なのである。つまりそういう人を家で雇うということがいかに危険なことか雇う方でも自覚していないのだ。雇う方でもそんなことみんな当たり前じゃないかとなるからお手伝いさんなどは信用できないからアメリカでは裸で働かせるとか極端なことになっているがこれも笑えないのである。そんなところで働く方も働きたくないとなるが働く方にも問題があるからしかたないとなるのだ。
人間はいかに動機が大事かわかる。心が大事かわかる。その行為ではない、心から発して行為がある。そういう心で働く人はすでに犯罪にさえ向かっているから危険なのである。犯罪でも動機を重んじる。無銭飲食でも最初から無銭飲食しようと心で思ってやるものとあとから心変わりして無銭飲食になったものではその罪の重さがまるで違う、計画的ではなくあとから食い逃げしたものは罪にもならないのである。食い逃げする動機が入った時点ではなかったからである。故意なのか、故意でないのかで罪の重さは別れる。故意でなければ過失なら罪にならないのである。心で意図ししてやっていないからだ。心で意図してやっていればその罪は大きいのである。「神が心を見ている」というとき心の意図するところを見ているのである。だからそもそも働く意図が悪ければただ金のためだけの奴隷にされているんだということが働く意図としたらその人を本来は働かせるべきではない、でも現実はほとんどそういう人が多いのが現代である。
働くことが美徳ではなく、消費が美徳であるときそうなる。消費するために働くことになる。遊ぶために働くのであり働くこと自体に意義を見出す人は少なくなる。そういう傾向が増大したとき誰も働くことは奴隷になることであり働くことは馬鹿らしいとなり働くなくなってくる。そして手っとり早く消費するには金を手にいれることだとなり盗むことや借金になりただ消費することが目的化するのである。それがアメリカの消費社会であり日本もそれにならい借金してまで消費を推進させたのである。借金しても消費することがいいのであり借金は払う必要がないとかなる。
国では莫大な借金があるが日本銀行で紙幣をすればその借金は返せるとかまでなる。借金を奨励してまで消費させることが推進させられるのである。その結果としてアメリカから起きた世界的不景気になっているのだ。