2010年12月07日

「労働が美徳」から「消費が美徳」へ極端化すると社会は崩壊する


「労働が美徳」から「消費が美徳」へ極端化すると社会は崩壊する


生産力がその需要に対して小さい社会では節約が美徳であり、生産力の方が大きい社会では消費こそ美徳になるというのが答えだ。
http://aircheck.blog68.fc2.com/blog-entry-88.html


●労働が美徳、倹約、節約がモラルの世代の人


現代の特徴はモノ余りでありモノが売れない、デフレの時代である。米が余る、電気製品も過剰生産しても売れない、車もみんなにゆきわたり売れない、たいがいモノをもつようになったから売れないのである。モノがない時代、高度成長期はモノがないから何でも飛ぶように売れたのである。モノが一応ゆきわたれば電気製品も車もゆきわたればモノは売れなくなるのは当然である。モノ余りの時代だからこそ「消費が美徳」となってきた。戦前から戦後の一〇年くらいまではそもそも消費するモノがないから「消費が美徳」とはならないのだ。高度成長時代は生産と消費は一体化して回転していた。大量に生産すれば大量に消費されて売れたのである。でも今になると大量に生産しても売れないのである。「消費が美徳」として会社でももっとモノを買ってくれといっても生産しても売れないのである。それでモノの値段は安くなりいくら生産して売ろうとしても売れないからデフレになる。老人は金をもっていても使わない、金があってもどう使っていいかわからない、ただ病気や介護にそなえて金をもっている、だから豪華な介護施設をどんどん使って老人に金を使わせろというのも一理ある。老人は金をもっていてもそうした施設に入るためにかなりの一時金をとられる詐欺にもあうのが現代である。老人の望むものがそこにあるから詐欺にかかりやすいのである。それは家の中に入ってくるヘルパ-による詐欺で金をとられる老人が多いことでもわかる。老人はなにかに消費する力がない、消費するのにも時間がかかるのだ。旅のことを何度も言ったが本当の旅をするのには今やかえってその労力は大変なものになる。かえって歩く旅とか自転車の旅が本当の旅を経験するのだがその労力は体力や時間がかかるのだ。旅などど無駄となるがでも本当の旅を体験しようとしたらその労力は実際は大変な労働にもなるのだ。単なる消費ではない消費も労働になっている場合があるのだ。パソコンと高度な知的道具だからパソコンを買う人は単に無駄に消費しているのではない、すでにパソコンを消費する人は使う人は必ず知的生産に寄与しているのだ。パソコンを使いこなすには相当な時間と労力が必要だからそうなっている。消費と浪費はまちがいられやすいが
消費も生産につながっていることがある。老人は消費できないというとき反面は生産できないということにも通じているのだ。パソコンをやるにしても時間と労力が大変だから買わないという人も多いからである。


●消費が美徳の世代の人の価値観


人類史のなかで「消費が美徳」とかモノ余りを経験した時代はない、モノ不足が常態である。
米が余って捨てるほかないなどという時代を経験していないのである。米をもっと食べてくれとか言っている時代は戦前までないのだ。米は常にたりないのが普通であり米の生産をふやすことが第一であった。米があまり減反政策をするようになるなどありえないことだったのである。
消費ではなく生産に重点が置かれる時代は働くことが大きな価値観になる。働かざるもの食うべからずになる。団塊の世代の親の世代、今の八〇代はそういう世代であり「もったない」の世代であり米粒一つもむだにしない、必ずあまったものを残らず食べている世代である。その人たちは働く一方で消費しない、働くこと自体が生きがいであり消費は生きがいにならない、だから働いても極力消費しない、金は使わずためる一方である。今になり何に金を使うかとなると病気のためとか介護のために金を使う、そこでだまされる老人が多いのである。消費しないのは消費することに価値を認めないからである。それが例え例えば庭作りでもそれが無駄だとなれば絶対に認めないし使わないのである。モノ不足の時代に生まれたから生産が美徳であり貯蓄が美徳の時代なのである。金をいに有効に使うかを知らない世代である。これも人間としては相当にアンバランスであった。

現代はこの八〇才以上の世代の価値観-モノ不足時代の価値観-労働が生産が美徳という価値観が逆転して消費が美徳の時代になったことのギャップが大きくなってしまった。そこから生じた問題はいろいろある。マクロ的にはそもそも地球の資源は限られているのだから消費は美徳として無駄に消費していたら地球の自然は森でも何でも破壊されてしまうということがあり節約、倹約が美徳だとなる。モラルとしても正しいとなる。労働が美徳であり節約、倹約が美徳でありモラルの時代が江戸時代から戦後まもなくまでつづいていた。これは世界的にもそうだろう。モノ不足が常態である。では「消費が美徳」の時代になれば勤労すること生産することは美徳になる、モラルとなる傾向が減少する。つまり働かなくてもこれだけモノがあふれているのだから働かなくてもモノが手に入る、手に入れるべきだとなり若者でも働こうとしない人々がでてきた。それがニ-トとかフリ-タ-とかであった。それが実際は不景気となり正社員としてまともに働けない人たちとなっていたのである。ニ-トとかフリ-タ-とか派遣が働く人にふえたのは最初は消費が美徳の時代に生まれたのだからそうなりやすいのである。働かなくても消費した方がいい、労働は辛いからそんな労働をやめて消費する側に回った方がいいとなる。
アメリカが消費が美徳として極端化したとき、金もない人までカ-ドで消費される、消費が美徳が拡大化して極端化したとき世界的不景気の引き金となった。つまり消費するのにも金が必要である。では金は労働なしで生み出せるのか?ドル紙幣をすればいいじゃないかとなるがそこから富は生まれない、借金からは富は生まれない、富は労働なくして生まれないものである。アメリカがまさに消費が美徳で拡大化して極端化したとき世界的不況となり世界に混乱をもたらしたのである。だからアメリカの罪は大きい、その根底に消費が美徳が拡大化して極端化すると社会のモラルは崩壊して社会そのものが崩壊するのである。だからすべてをアメリカに習ってはいけなかったのである。


●「消費が美徳」から「労働が美徳」へ逆戻りの矛盾


一方で消費するには金が必要である。ところが金は働かない限り入ってこない、つまりいくら消費しようとしても働かない人には金は入ってこない、入ってこないだけではない、社会から社会の敵として脱落者の烙印をおされる。無職は社会の最大の敵として排除され攻撃されているのは豊かな時代でも同じである。不景気の時代になると余計に働かない者は責められる、景気のいいときはかえって少数だったら働かない人がいても世の中そういう変わった人もいるとかで見逃される。社会自体に影響ないからである。でも相当数の人が特に働ける若者が働かないのけしからんとなり責められる、働かない若者は日本にいる資格がない、海外から働く人を入れるべきであり働かない若者は外国に追放すべきだとまでなる。「労働が美徳」の時代がモノ余り「消費が美徳」の時代にに起きている矛盾があるのだ。そして不景気で新しい貧乏の時代になり働いてもたいして金は入ってこないからますます消費が美徳とされても消費できない人々がふえてきたのである。

すでに消費が美徳とされてきた時代も30年-40年と長いのである。でもその間でも労働が美徳、節約、倹約がモラルとしてありつづけていた。だんだん薄れるにしてもありつづけた。それでも消費が美徳ということが圧倒してくる。モノ余りの時代が加速してくるからそうなる。労働という難儀なことより一気に金が入り消費する方が美徳だともなる。そういう風潮が広まり大勢となっているのが現代である。それが極端化してゆくと働くより盗んで消費した方がいいとなる。実際自分でも働くことを否定してきて生きてきた。そもそもの出発点が悪かったのである。最初に労働が底辺労働であり大学卒業して流れ作業ばかりやらされたことが原因だった。それ以来労働することを極度に嫌悪するようになった。流れ作業に労働の歓びを感じることはない、労働で歓びを感じた経験もないのである。それ以来労働しなかった。偶然にそういう環境にあったためでもあり普通はそうならない、労働は嫌でも強制されるのが普通である。


●根本的には労働がすべての価値を作る


根本的には人生は労働なくして存在しえない、労働がすべての価値を作りだしてゆくのであり労働しない人生とか社会などありえないし成り立たないのである。農民が労働しなかったら食料がなくなり飢饉になってしまうだろうし大工が働かなくなったら家にも住めなくなる。労働なくして社会は存在しえない、労働が価値としてすすめられない時代はなかった。それは宗教的でさえもあった。人間社会の根底に労働は常にすすめられてきたのである。労働によってすべての価値は作り出される。労働なくしていかなる価値も作り出せない、土地があっても土地は何も生み出せない、自然に生み出されることはない、そこに人間の労働が加わって価値あるものが生まれる、食料は生産されるのである。だから土地だけもっていて豊になる地主は一時戦前では敵とされた。不公平だとされて農地改革が行われたのである。労働することが権利を獲得することであった。労働しなければいかなる権利も生まれない、得ることもできない、介護でも親族でなくても介護という労働をしてくれた人には権利が生まれる、その人に財産も分与されるのは当然だとなる。いかに親族でも何もしないなら労働しないなら正当な権利は生まれてこないのである。


●「消費が美徳」が拡大化すると道徳は破壊される社会も崩壊する


そもそも労働なくして富が得る方法は泥棒しかない、他者のもの盗む、富者のものを盗む、それは消費が美徳であれば正当化されるのだ。難儀な労働より一気に金が入るのに一番手っとり早いのは相手の富を盗むことなのである。それが犯罪にしても消費が美徳の時代になるとそうなりやすいから万引きとかがふえてくる。モノが余っている、あふれている、でも労働してモノを買うことがめんどうになりこつこつ働いて金にならない不景気の時代は余計にそうなのである。こつこつ時間をかけて働くことが馬鹿らしくなるのだ。80代の人の価値観は消費が美徳の世代になると通用しなくなるのだ。「欲しがりません勝つまでは」とか忍耐するということもない、とにかく今あるものを手っとり早く消費したい、消費したい、欲しい、欲しいとなれば盗むのが一番手っとり早いのである。労働は難儀なものであり否定されるのである。借金して無理やり消費するのも消費が美徳ということが拡大化して極端化すればそうなる。金がなくても稼がなくても借金すればいい、でもその借金は返さねばならないものとなりさらに負担になるのだ。でも安易に借金をするのは消費が美徳ということが社会的に拡大化して極端化するとそうなるのだ。

 

 
急いで得た富は減る、少しづつたくわえる者はそれを増すことができる


はじめに急いで得た資産はその終わりが幸いではない-箴言-20-21


欲の深い人は急いで富を得ようとする、かえって欠乏が自分のところに来ることをしらない
箴言-28-22

急いで富を得ることはできない
http://musubu.sblo.jp/article/41830381.html

 


でも富はそんな簡単に手に入るものでもない、確かに親の遺産とか別な事情で大きな金が入ることはある。それもまた先祖の恩恵でありその人はそれだけの恩恵に欲したのだから責任もあるとなる。無駄に浪費できないものとなる。でも本質的に人間は労働がなければいかなる正当な権利も得られない、あの人は富んでいからといってその富を盗むことは犯罪になる。でも富者の下で働いて財をふやすのは正当でありやがて富者になる権利を労働によって作っているのである。でも一気に富者になりたいとなれば盗むほかないのである。それはいくら貧乏でも犯罪になる。現代はまさに富者になるためには富者の富を一気に奪った方がいい、富者の元で地道に働くなど馬鹿げているという風潮が増大しているのだ。今すぐ金をくれ金をくればかりでありあわてる乞食はもらいが少ないというのが実感である。もっと欲を少なくして少しづつもらうようにしていれば付き合いもつづいたが今お前のもっている金をよこせよこせと性急に要求されて付き合いも絶えてしまった。このことは富者とは別に個人ではなく社会がモノ余りの富者になっているのにいくら働いてもこつこつ働いてもたいしてし金にならないとなればモノを盗む奪った方がいいとなってしまう。それはいくら不公平でも犯罪であり社会のモラルはなくなりただ対立だけの分裂社会になってゆく、労働というとき何かしらそこには金だけではない価値を生み出すのが労働である。人間はいくら働かなくてもいい社会になっても労働がなくなることはない、労働は生きがいであり農民は種をまき手入れして収穫の季節を迎えてその収穫物を自ら食すとき働いたことを無駄だとは思わない、充実感に充たされるのである。いづれにしろ今は「消費が美徳」-「労働が美徳」の矛盾が増大して性急に富を得ようとして根気よく働いて権利を得る、価値を作り出すということができなくなっている。労働が美徳という価値観が減退して消費が美徳ということが常態になり拡大化してゆくときそこにモラルの崩壊から社会の崩壊に向かうことになる。人間の社会がモラル、道徳が基礎にありそのモラルが破壊されることは社会そのものが崩壊することになる。現実の社会は今やそういう非常に危険な水域に入っている。


worktimes2222.jpg
この図のように消費が美徳となり拡大化して極端化すると長い時間の労働より短絡的に富を得ようとする。石の上に三年すら耐えることはできない、さらに極端化すると盗むのが一番手っとり早いとなるのだ。

posted by 老鶯 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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