2010年12月01日

冬菜

 
病院へ冬菜に光介護かな



病院で定期的にやることがある。たいしたことではないがそれでも介護なのだろう。これが在宅になったらひどいことになるかもしれない、一日一回通って水を変えたりするちらいならいい、大正生まれとか戦前の生まれの貧しい時代は「もったいない」世代であり贅沢を言わない、忍耐強いの特徴である。団塊の世代が介護になったら贅沢を経験しているからめんどうになるかもしれない、町中に畑があり冬菜がある。冬菜というと貧しさの象徴のようになるが現代では清貧というのはいかにむずかしいか体験してわかった。現代ほどかえって貧しいことが耐えられない時代はないのだ。貧しい時代も耐えられないということがあるがそれは現代の貧しさとはまた違っている。みんな貧しいのだから他をうらやむとか第一モノがないのだから金があっても買いようがないということがある。今はモノがあふれているし金があれいろいろな贅沢ができる。

その豊かななかで人間は貧しく窮乏感がましているのだ。貧しさにみんな耐えていたのが昔だが今は貧しさに耐えられない時代なのである。だから格差があり貧乏な人で清貧に生きる人など皆無に近いだろう。その人たちはみんな大きな不満をかかえているのだ。冬菜が貧しさの象徴なときに冬菜でも冬の光がさしている。そうして清貧に生きる人がいたならと思うが実際は今はいない、そういう貧しさに耐える感覚は今やないのである。だから今の時代本当に貧しい人が例えば「貧しさや冬菜に光耐えるかな」などと俳句にすることはない、これはかえって貧乏でない人が想像で作る句になる。現実に貧乏に生きる人はこういう心境になる人はいないのである。


ともかく家事一切をやらるとなるとこれも疲れる。洗濯機が壊れたみたいだ。こうしたものは日頃使っていないとその使いにくい、だからコインの自動洗濯機でした方が便利なことがわかった。一時六万もして乾燥機買ったがこれは不必要になっていたのである。その時コイン式の自動洗濯機があっても町にも一カ所あったが利用していないので気づかなかったのである。近くでも自分がやらないと利用しないのである。それで損したのである。今では一人暮らしでも便利にできているから家事でもうまくやれば楽になっている。昔は掃除、洗濯、料理でも一仕事だったから女中とかを使わずに大きな家ではやっていけなかった。今は女中がやることを機械が代わってやるから楽なのである。だから女中とか手伝いさんの需要は極めて少なくなった。そして前から金持ちでお手伝いさんなどを雇っている雇いなれている家はいいが最近になり一時間とか家事手伝いなど頼むべきではない、家の中に入ってくる人はよほど信用ある人でないと大変なことになる。


こういうことはやはり昔から雇っている金持ちの家でないとうまくいかないものだったのである。そういうところでは長く働いているから安心できる人がいる。そういう人は即製には作ることはできない、それが失敗の元だった。信用を得るには長い時間がかかる。例えば単に買物するにしても十年間くらいコンビニにでも通いそこに同じ店員がいたらあの人は万引きするような人ではないと一応はなる。その長い時間に信用が生じるのが普通である。でも今はコンビニでもどこでもよそ者が相手となると信用が生まれないのだ。家の中に入れる人はよほど信用ないと危険極まりがないのである。アメリカでは金持ちの手伝いさんを裸にしてなら雇うというのもわかった。それくらいしないと金持ちの家は危険である。アメリカの金持ちは桁外れであり手伝いさんとなると移民が多くそういう人は全く信用できないのである。ただ長くなれば信用は生まれてくるのが人間なのである。

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