2010年11月28日

新しい貧乏、窮乏の時代


    新しい貧乏、窮乏の時代


●財産を受け継ぐまで自分も貧乏だった

いつの時代にも貧乏人と金持ちはいた。戦後まもなくまでは貧乏人が圧倒的に多かったし
歴史的にみても貧乏人が多数である時代はつづいたのである。江戸時代でもやはりほとんどは貧乏であり武士すら貧乏である。日本では豊かな時代を経験したのは戦後一〇年以後の高度成長時代だった。子供時代は飯台一つと裸電球であり電気製品も一切ない暮らしだった。
人間がみんなが豊かさを共有したのは高度成長の時期であり団塊の人がその主役だった。
その時代は誰でも豊になれる時代だった。起業するというとき自分の家でも子供相手の三文店屋から始まったが場所が良かったので繁盛した。その時モノがないからモノさえ置けば飛ぶように売れたのである。モノ不足の時代だった。そこで起業するとき資金を調達するのが大変だった。ただその時は銀行でも資金を貸せばみんな繁盛したのだからもうけることができた。経済はあらゆるところで順調に回転していたのだ。でも今からふりかえるとこの高度成長は一時期の幸運の結果であり長続きするものではなかった。高度成長こそ常態ではなく例外的な幸運だったのである。

そして今何が起きているのか、新しい貧乏の時代に入っていたのである。新しい窮乏の時代に入っていたのである。万引きが増えるのもそのためである。コンビニでパン二個のことで犯罪人されたことを書いた。そもそもそうした小額の万引き自体が常態化しているのは結局、若い人には金がないからである。自分も経験があるからわかる。自分は親の資産を財産を受け継ぐまで貧乏だった。親は金をもっていても自分は無職だから金をもっていなかった。だからずっと貧乏だったのである。親が死んで財産を受け継いでその財産を自由にできるとき豊さ金持ちになったのである。もちろんその財産はたかがしれている標準的なものである。それでも自分にとっては大きな金だった。それではじめて自分で庭作りしたとき一五〇万くらいかかったがそれではじめて大金を使った経験をした。それまでは旅行したって貧乏旅行だから海外旅行でも三〇万くらいしか使っていないのである。自分には確かに家が資産としてあったとしても貧乏人だったのである。食うものがないとかではないが百円二百円にこだわる貧乏人だったのである。だから旅行したときは食事はいつも最低限の支出でおさえていたし泊まるところもいつもなんとか安い宿を探していたがなかなか見つけられないので苦労していたのである。豪華なホテルとか温泉旅館に一度も泊まったことがない。一万以上の宿には泊まったことがないのである。なぜそうなったのかというと親は金をもっていてもその子供が金をもっていることにはならないからだ。大きな財産家なら別だが小金持ちではそうなるのである。


●なぜ老人の貯金が使われないのか?


それで最近読んだ「デフレの正体」-藻谷浩介著という本でそのことを分析していた。老人は金をもっているというときそれは本当である。団塊の世代は消費が美徳の時代に育ったから金を使う。その前の大正生まれや戦前生まれは「もったない」の時代であり働いても金は貯金する一方だったのである。ちょうどそのとき高度成長期と重なり利子が高いから一千万の金の価値は二千万以上になっていたのである。それで団塊の親の世代はみんな多額の貯金をもっている人が多いのである。団塊の世代も今の若い人より金をもっていることは確かである。ただ格差社会になっているから貯金をもっていない人はもっていないのである。そして今社会構造がどうなっているのかというと団塊の世代の親の大正生まれや戦前生まれは八〇才以上でみんな生きている高齢化社会になっているのだ。そして遺産を受け継ぐのは六〇以上の人になっている。六〇以上というと団塊の世代でも老人なのである。長生きしているから遺産を受け継ぐのが遅くなってしまったのである。だから金がない権力がない老人は相手にされないという恐怖感がでてしまう。老人が金をもっていて手放さないというのはそういう時代背景もある。もし40代くらいで資産を財産を親から受け継いだらその時教育で子供に金がかかるとき子供にも金が回るのである。60代ではすでに60代の人は老人の仲間入りしているのであり病気とか介護とか老後の資金を必要とするから金を使わないのである。

それで金が回らないというのは納得する。大正生まれや戦前生まれの親のもっている財産を受け継ぐのは六〇以上の人が多いがその人たちが遺産を受け継いでもやはり親の世代と同じように老後の病気とか介護とか心配のために金を使わないのである。その金が膨大なものとなっているのだ。それで社会に金が回らないのである。自分でも身寄りがない、家族がないとなると頼るものは何なのか?金だとなる。そして今の時代、若い人は老人に対する敬意というのが全くない老人に冷たい社会なのである。老人に対する尊敬心がほとんどないのである。そういうことも強く影響しているのだ。コンビニで対応した若い店長も「おっさん」どうだこうだとかまず年上のものに対して何の敬意もないのである。今や60代でも万引きしたり犯罪が多くなっているのも影響している。ただ今の若者は老人とか年上のものを敬意がないだけではない、自分のプログでもその嫌悪感をあからさまにしているように軽蔑感に満ちているのだ。そのことは老人に相当な大きな影響を及ぼしている。老人が尊ばれないとすると老人自体のモラルも極度に低下してくる。そのために老人自体が犯罪を平気で犯してくる時代になった。特に金のない老人は家族でも相手にされないとなると余計にそうである。高齢化社会は老人にとって本当に生きにくい社会になっているのだ。老人はコンビニなど行くべきではない、一〇年間通っても最後は犯罪人にされるだけである。そこはよそ者が中心だからやむをえないともなる、ならば小売店の方が老人に親切にするから信頼してくれるからいいとなるのだ。


●恒産なければ恒心なし


つくづく人間「恒産なければ恒心なし」である。自分自身が経験してきたことだからわかる。人間ある程度資産がなければ心に余裕がでてこない、清貧というのもあるがこれはかえってモノがあふれた豊かな時代で実行することがむずかしくなっている。そして高度成長期が終わったとき実際は新しい貧乏の時代窮乏の時代に入っていたのである。何が貧乏なのだ、窮乏なのだ、こんなに世界中からモノが集まりあふれているのに何が不足なのかとなるが実際はその豊かな時代になりかえってモノがんくらあっても買えないとなり窮乏感が増しているのだ。だから小額のパン二個でもコンビニではこだわり買う方でも万引きがたえない時代になっている。まず資産が財産がある人はパン二個など絶対万引きしない、ただ人間は非常に動機が複雑だから遊びでスリル感を味わいたくてする金持ちはいることはいる。でも普通はしない、自分も一千万近くの損害を出していて悩んでいたのでなぜパン二個で犯罪人にされるのか腹が立って激怒したのである。でも自分もふりかえれば同じだったから責めることはできないと思った。


「恒産なければ恒心なし」でありつくづく財産を受け継いだことで自分も今はその心境である。
でも金の価値は高度成長期からすると半分以下になっているから全体的にはいくら老人が金をもっているとはいえ豊かさを持ち得ない時代なのである。つまり金をもっている老人もモノがあふれていても買えない若者もみんな等しく窮乏感がましている新しい貧乏な時代になっているのだ。これももはや単なる一時期のものではない、不況も長くつづけばすでに一時代のエトスを形成する。ヨ-ロッパの中世のような江戸時代の倹約節約が美徳とされる時代感覚になる。
消費が未だに美徳とされることが違和感をもつようになる。でも以前として消費は美徳という高度成長期の感覚が継続していることに問題があるのだ。消費が美徳としても金がないのだから消費しようがない、そしてモノがあふれているのに買いないという窮乏感だけがましてくる新しい貧乏な時代になっているのだ。だから人々の心に余裕がない、パン二個でも売る方では馬鹿にできない、買う方でも得しようとするせこい新しい貧乏の時代になっている。



《「エトス」とも》
1 アリストテレス倫理学で、人間が行為の反復によって獲得する持続的な性格・習性。⇔パトス。
2 一般に、ある社会集団・民族を支配する倫理的な心的態度。
タグ:貧乏
この記事へのコメント
小林さまは若い時から仕事をしておられなかったのですか?
収入源がなければ大変だったでしょう。現在、自宅で収入がおありだとか?
でなければ、暇で仕方ありませんよね。いずれにせよ、鞄に入れた結果的行為はパンに限らず、個人情報悪用も兼ねて良い事ではありませんね。
ご自愛ください。
Posted by Ayumi at 2010年11月28日 20:08
追伸
先の失礼な表現、お詫び申し上げます。お母様の事も大変だと思いますが、大切にして差し上げて下さい。
私も、よそ様のケアだけでなく、母の事も二倍大事にしなくてはいけませんから頑張ります。
それでは…。
Posted by Ayumi at 2010年11月28日 21:39
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