2010年11月27日

コンビニでの万引き問題2( 法律の基本は「故意」と「過失」にあった)


コンビニでの万引き問題2( 法律の基本は「故意」と「過失」にあった)


そうなるに違いないと、自らの予測や判断を信じている思考は、「確信」。
●思わしくない結果に終わることを、承知の上で何かをする場合の思考は、「故意」。
●するつもりも無く、そうなるとの予測も全く無かったのに、思わしくない結果に終わってしまう時の思考は、「過失」。
●自らの信念に基づき、正しい行為と信じて行う犯罪は、「確信犯」。
●思わしくない結果を事前に予想しておきながらも、なお、その行為に及んでしまう時の思考は、「未必の故意
」。
http://www.kachijiten.com/terms-dictionary/mistake.html



この判断は結構重要かもしれない、法律は理屈なんだけど犯罪に適用する場合、この理屈を基にして現代では裁くのである。今回の自分の例はこのうちに何にあてはまるのかが問題になる。自分は過失だとしても相手はそう思わないことがある。うっかりミスで支払い忘れましたですまないことがある。過失意外の「故意」「確信犯」「未必の故意」と判断するのが普通である。
特に一回しか立ち寄らない人だと必ずそうなってしまう。過失だったとは判断されない、今回自分の場合は自分はうっかりミスの過失だと主張した、心からそう思っていたからだ。でも他の故意でも確信犯でもそういう人はいくらでもいる。例え確信犯でも証拠見せろとか言い反撃してくる人はでてくるからそういう人に多く接していれば相手もそう思ってしまう。つまりうっかりミスで支払い忘れるというふうには店側では考えない、ところが

店員はあの人は十年くらいこの店に来ていますよ、不審な様子を見たことは一度もありません、だから今回どうしたんでしょうと思っていました、でも確かに週刊誌を読んでいてパン二個をバッグに入れるのをレジから見たんです・・・


とか店員が店長に言えばそういう人だったのですか、防犯カメラに写っていて一旦外に出てしまい時間がたって呼んで詰問することには問題があるかもしれない・・・こうした慎重な考慮がたりなかった。即座に犯罪と断定してカメラの写真を証拠にして詰問してきたのである。これもやむをえない店側の事情があるにしても「故意」「過失」を判断するの店側で支払いをしないで店の外に出た、明らかに犯罪であるとなる。でもその中に明らかにまたうっかりミスの人は確実にいるのだ。そのうっかりミス自体もミスに違いないから責められるべきものだというのは本当である。でも店がそういう構造になっている、コンビニはうっかりミスを起こしやすいとなれば話はまた別なものになるのだ。


そして店長はこの土地のものではない、派遣でありその店に勤める年数が一年とかならなかなか客のことはわからない、でも店員は十年くらいいた人がいた。すると店員の方が一応その人について詳しい情報をもっていることになるのだ。だから店員がその人のことについて良く話さねばならない立場だし店長もこの店に長くいないのだから良く長くいる店員の話を聞く必要があるのだ。つまり防犯カメラを万能のように信じてそれで追求してくるより人間的なものを第一にしてあたることも必要になる。防犯カメラに写っている、それを絶対として武器として人間を追求し人間を判断することは危険だった。人間とはそういう複雑なものであり決して機械だけを万能にして物事は解決できない、医療だって機械だけではすべてが解決できない、それはあらゆることに言えるだろう。


いづれにしろ法律的に見てその人が「故意」なのか「過失」なのか判断することはむずかしい。詐欺などは最初から故意であり悪質である。これは実際に法律の理屈だけの問題ではない、宗教的問題にもなっている。なぜなら「神は人の心をみている」というときその人が故意なのか過失なのかわかりにくいからだ。もし故意ならばその心は悪質でありその人は罰を受けるべきものである。例え犯罪に結びつかなくてもそういう企みを抱くだけで相当な罪になっているのだ。だから人をだまし金銭をとることや人をだます行為は故意であり悪質であり刑法でなくても宗教的にも罰せられるモラルとしてそれは大きな罪を背負うことになる。そういう悪質なものは人の心を相当にゆがめてしまう。それは神の御意(みこころ)に反する大きな反逆であり罰がある。刑法でもその罪は大きい、それ以上にモラルとしてその罪は大きいのである。

ともかく故意か過失かはいろいろなところで法律の基本として問題になる。例えば事故でも交通事故はたいがい過失であり故意にわざとぶつけることをするわけではないから人を殺してもそれほど大きな罪にならない、車社会だからそういうことが容認されているのだ。つまりうっかりミスで過失で人を殺すということがしょっちゅうある。でもわざとひき殺そうとするのとは違っているから人が死んでもそもほどの罪にならないのが交通事故なのである。車社会はだからそれで維持できる。それが重罪となれば誰も車に乗らなくなるだろう。医療ミスでも患者を殺そうとしてやるわけではないから大目にみられる。ところが故意でこの家は金がある、その金を自分のものにしようとする。例えば認知症の老人をだまして大金をとることは相当な罪である。故意であることは明確だからだ。つまり「故意」と「過失」は法律的にも大きな争点となる。それは宗教的にも大きなテ-マとしてある。法律の基本としてあるから宗教的なものと法律的なものは非常に深い関係がある。宗教は許しとかを優先するが法律は実際に人をその罪を具体的に罰することに重点を置いている違いがあるだけである。
タグ:万引き
posted by 天華 at 10:36| Comment(4) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
法律に関しては、私も解ります。しかし、バックに入れたのは理解できません。何故バックに入れたのですか? お疲れなのかもしれませんが残念です。
Posted by Ayumi at 2010年11月27日 12:32
小林さん、大丈夫ですか?
そこまでおっしゃるのは事実だからでしょうが、ブログで世界に発信されるより弁護しに相談されてはいかがですか?
私は微々たる財や、財では得られない大事なものや人、自転車、携帯電話やアドレス帳その他、盗まれた側なんで、逆の立場がわかります。私は人間の悪巧みで大きな被害を被りましたので被害者側についてしまいます。ご自身も被害にあわれたなら解ると思うのですが、何とも申せません。お元気でお過ごしください。
Posted by Ayumi at 2010年11月27日 13:45
今の世の中、大きな会社など告発することはむずかしい。大きな団体を相手に敵にすることはむずかしい。そういう組織社会の中では一人の人権など力などなきに等しい。
大きな力にもみけされてしまう。でもインタ-ネットで個人が表現できて訴えられることは
やはり民主主義の発展には役立っている。そもそも大きな会社とか組織団体には個人は何も言えないですから・・・

弁護士に訴えるほどのものではないでしょう。インタ-ネットでも何百人が読めばそれなり影響することもあります、これは自分だけの問題ではない、みんなの問題になりますから
私的なものはみんな公的なものにつながっている。私憤でも公憤につながる、個人的には人権侵害であり名誉棄損であるがこちらのミスも確かにあったからそれ以上追求することは無駄でしょう

でも自分としては残念です、一〇年も通った店なのに最後は犯罪人として糾弾されたことが人間で一番大事なのは信頼関係ですね、人間と人間の信頼関係です

でも人間がそういう意識がない、コンビニでもス-パ-のレジでも機械で代替わりできるとかロボットなのかとか思うことがありますから・・・・今の社会そうした人間関係が希薄になっているからこうした問題が起きている、コンビニの客は地元でない、ほとんどよそからの客だから余計にそうなっていたのです
Posted by プログ主(小林) at 2010年11月27日 16:56
確かに団体には叶いませんが、水面下で第三者を使って中心人物を落とす事は可能です。
犯罪者に、この世を制覇した様な大きな面をして生かしたくはありませんから。小林様も色々な災難続きで、お疲れだったのでしょう。許しがたい名誉毀損や人権蹂躙は裁けますけれど、小林様の、今回のケースはミスがあった訳ですから仕方がありませんね。
頑張って下さい。
Posted by Ayumi at 2010年11月27日 18:28
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