冬薔薇ここに一輪また来なむ
冬薔薇小さき町に我は棲む
一枚の枯葉沈みて手水鉢茶室の細道夕暮れにけり
ともかくつくづく高貴なる貧者や清貧に生きるものなどほとんどいない、貧者こそあくなく充たされぬ欲の塊なのである。ただ立場上欲望が充たされないだけでありたまたま富者になったら嫌らしい成り金趣味になる。清貧に生きたというときそれは現代でその人を探すのはむずかしい。現代は清貧に生きにくい、物質が富があふれているとき清貧とは何かわからなくなっているからだ。だから清貧に生きた人は江戸時代とか過去に求める他ないのだ。そこでは高貴なる人は清貧に生きざるをえないことがあった。みんなが貧者でありそのなかで高貴なる貧者が生まれた。良寛などはそうであろう。今は富とモノがありふれていて欲望は無限大グロ-バルに拡大化しているから清貧の意味すらわからない、清貧なんか消費のためにならない、馬鹿げているとしか評価されない、清貧の本を出して大儲けした作者がいたことでもわかるとかそんな消費社会になっているからそもそも清貧とかの価値を見出すこと自体むずかしい。
明治からは西洋化されてあまりにも物質一辺倒の社会になりすぎた。モノと金との追求しかなくなったのである。日本人に受け継がれてきた伝統的な精神の文化は喪失した。モノと金との追求で社会は荒野化してしまったのである。もちろん金を否定するものではない、現代の標準的生活の金は必要であるしそれなりの金があって追求して悪いということはない、でも精神的価値を否定して物質的な価値ばかり追求すると社会は荒廃する。経済を心の観点から見直す人はいないのである。経済もそうなると単にあくなき欲望の拡大と充足の追求になってしまう。人間の欲望にはきりがない、なんらかの歯止めがないと人間社会は荒廃してしまうだろう。現実に荒廃しているのである。
冬薔薇というのも何か茶の心、わび、さび・・・の心に通じているのだ。ひっそりと忘れられたように咲いている。それがなんともひかれるのである。
小林様も退院直後に災難でしたね。今の時代は皆、清らかで癒しを求めているのです。物がなかったシンプルな時代の方が生きやすかったのかとなると、その時代を生きた訳ではありませんから判断出来ませんが、大人になればなるほど社会の矛盾が見えてきてますね。
現代のようなモノにあふれた豊かな時代を人は経験していないでしょう
戦前生まれでも戦後生まれでも団塊の世代でも個人差はあっても貧乏を経験している
モノのない時代を経験している、たいがいの家では粗末な飯台一つくらいしかない
今のように電気製品もない時代を経験している
江戸時代ならもっとモノのない貧乏が一般的だった
貧乏を賛美するのではなく貧乏で暮らすほかなかった
モノがなくても貧しくても耐えるほかない暮らしだった
だから共通して耐えてゆく、耐えて助け合うということがあった
モノがあふれこれだけ豊になったときモノがないから貧乏だからと耐えることができない、
様々なも便利なモノがそこにある、車がみんなもっているとき車がないことに耐えられない
みんなモノがない貧乏ならしかたがないから耐えてゆこうとなるが現代はそうならない
豊かなモノはすぐ手の届くところにある、それがすぐ欲しいとなる、でもこつこつ働いてがまんしてモノを手に入れるということができない、戦後まもなくならモノがないのだからみんなしんぼうして豊になろうとしけ現実に高度成長になり豊になったのである。
一方で豊にモノがあふれた時代に生まれた人の意識は相当違っている、モノがあって当然、豊で当然の時代に生まれた人はモノは簡単に手に入る、努力せずに手に入る、そういう意識が強い、だからこつこつ働くことが馬鹿らしいとなる、その時逆に今は高度成長期と違い働いても給料が安いとか月給が上がらないとかなりこんなにモノが豊にあふれる時代なのに金がたまらないとか金に対する窮乏感が強まってしまった。だから耐えて豊になろうとする意識がなくなってそのために手っとり早く富を手に入れるためには金持ちから奪った方がいいとなり犯罪がふえてきたのである