晩菊や94才の母墓参り
押し車墓にたどりつき冬に入る
その花の誰に向かいて咲きにしや無邪気な雀来たりて去りぬ
94の母墓参り晩秋や家族の営みなおつづくかな
94の母の勤めや墓参り落葉を踏みて我も参りぬ
94の母も明らかに半ボケになったが墓参りはなんとかできた。墓参りが勤めなのである。そのまま墓に入ってゆくような状態でもある。墓参りも家族がなおつづいている家族の営みなのである。しかし他人は何か特別のことがないかぎり他人の墓などに無関心である。お手伝いさんとかヘルパ-にしても金しか動機がないから問題が起きる。すべてが金が働く動機じゃないかといえばそれまでだが「神が心をみている」というときその行動はいくらでも装うことができるからだと思った。老人に親切にする人はモノを買ってもらいたいとか知らないので証券を売りつけたとか老人自体を大事にして接する人などほとんどいないのである。老人のもっている金しか尊重していない、金をもらえば用はないのである。そもそもなぜこの縁もゆかりもない老人に親切にせねばならないのかという動機がありえない、家族ならありえるが赤の他人には全くない、こんな醜い老人なんか早く死んでしまいという感情しか今はない、子供ならかわいと無邪気さがあり無償でも世話したりすることがあるが老人を無償で世話する人なといない、ほとんど金目当てでありそれ意外老人の価値など誰も認めていないのだ。もちろんこれはすべての人にいえるのかもしれない、価値を認めるのはその人にではなくもっている金だけだとなる。金が手に入らなければなんら関係しないというのが現実なのである。金意外の動機があればなんらかの共同などありえるがその動機がないから心がないから問題が起きるのだ。その被害者が自分の家族でもあったというショックであった。
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