2010年11月09日

晩秋(94の母の墓参り)


晩菊や94才の母墓参り


押し車墓にたどりつき冬に入る


その花の誰に向かいて咲きにしや無邪気な雀来たりて去りぬ


94の母墓参り晩秋や家族の営みなおつづくかな


94の母の勤めや墓参り落葉を踏みて我も参りぬ

なんとか息が苦しくても母は墓参りしている。お手伝いさんは一時家族の一員のように思っていた。なぜなら仏壇にさす花をもってきたり墓掃除もしたりと家族の一員のようになりそんな気になっていた。それが全然違っていた、詳細は語られないにしろ余りにもショックで寝込むような状態だった。その裏切りはあまりにもひといものだった。つくづく家の中に入るお手伝いさんとかヘルパ-は人選が問題である。自分には人を見る眼がなかった。田舎ではありま悪いことはできないと思っていたのだ。狭い地域だから特にそうである。でも悪い評判の人などやはり狭い地域だからわかる。自分は田舎でも回りとつきあいないし母もないしその噂とか評判を良くきいていなかったからこうなったのだ。もうどうにもならない、人間不信になってしまった。どうにもならない悪い一番身近にいたということのショックである。花は咲いてもそこに雀のように無邪気に来るものはいない、自然界では当たり前のことは人間界にはない、常に欲がからみであり金絡みでありそういう関係しかない、家族意外はみなそうなってしまう。
94の母も明らかに半ボケになったが墓参りはなんとかできた。墓参りが勤めなのである。そのまま墓に入ってゆくような状態でもある。墓参りも家族がなおつづいている家族の営みなのである。しかし他人は何か特別のことがないかぎり他人の墓などに無関心である。お手伝いさんとかヘルパ-にしても金しか動機がないから問題が起きる。すべてが金が働く動機じゃないかといえばそれまでだが「神が心をみている」というときその行動はいくらでも装うことができるからだと思った。老人に親切にする人はモノを買ってもらいたいとか知らないので証券を売りつけたとか老人自体を大事にして接する人などほとんどいないのである。老人のもっている金しか尊重していない、金をもらえば用はないのである。そもそもなぜこの縁もゆかりもない老人に親切にせねばならないのかという動機がありえない、家族ならありえるが赤の他人には全くない、こんな醜い老人なんか早く死んでしまいという感情しか今はない、子供ならかわいと無邪気さがあり無償でも世話したりすることがあるが老人を無償で世話する人なといない、ほとんど金目当てでありそれ意外老人の価値など誰も認めていないのだ。もちろんこれはすべての人にいえるのかもしれない、価値を認めるのはその人にではなくもっている金だけだとなる。金が手に入らなければなんら関係しないというのが現実なのである。金意外の動機があればなんらかの共同などありえるがその動機がないから心がないから問題が起きるのだ。その被害者が自分の家族でもあったというショックであった。


 

タグ:墓参り
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