2010年11月07日

職業を金だけで計ることの疑問


職業を金だけで計ることの疑問

毎日問題にされるのは給料の問題である。働いていくら金をもらえるかが問題になる。医者はいくらだ、弁護士はいくらだ、公務員はいくらだ、恵まれているとか毎日が金の計算しかない、こんな金でこんなひどい仕事してられるかとかそうした不満が延々とメタンガスのようにふきだしている。それはそれでいいとしてでは人間はもしあなたは仕事しなくていいですよ、金は十分に与えますからとなったらどうなるのか?毎日安い金で働くことがない、遊んで暮らすというのも結構楽ではない、社会的にも認められない生活は結構楽ではない、人間はそもそも仕事しないでいられるものだろうか?農家の人にしても農業など金にならないからやりたくないといつも言っている。でもでは何もしないで暮らせる金を与えたらどうなるのか、あなたはこれから自分のやりたいことをやってくださいと言われたらどうなるのか?医者にしても看護婦にしても激務で給料が安いと言うとき、では医者をやめてどんな職業につけばいいのだろうか?金になるだけならいいのかとなる。医者は社会的にも尊敬され感謝される職業である。仕事は辛くても他の仕事とは全然違う。もっと金になる職業につきたいとして医者をやめたら他の仕事で生きがいを見出されるのか?社会的にも尊敬される職業なのであり他にそんなに尊敬される職業があるだろうか?ベ-シックインカムが導入されると働かない人がでてくるというけどそういうことは絶対にない、人間は仕事しないでいられないのである。


人生とは仕事が生きがいなのだ。本当に画家になりたい人は金にならなくても絵を描いているのに間違いがない、金にならないから画家はつまちらないとして絵を描くことをやめるような人は本物の画家ではない、別な仕事に向いているのだろう。ともかくどんな人でも能力があるにしろないにしろ人間は仕事が必要なのである。家事手伝いとか掃除の仕事でも立派な仕事だった。病院を掃除している人は60才すぎているけど金は安いけど緊張があるからしているという、シルバ-センタ-でも金を得るより実際は老人の生きがいを作るためだった。人間は六〇才で会社を退職させられることは残酷だというのは本当である。人生が会社とともにあったのにその会社から断絶し切られてしまう。地域社会などに生きがいを見出すのは至難である。なぜなら地域社会自体崩壊しているからだ。人間はまず金を計り金が優先される。しかし仕事をすべて金で計られるのだろうか?仕事の理想は仕事に使命感、ミッション、をもつことであり天職に従事することである。天職というと何か医者のような高級なものと思っているが家事手伝いのようなものでも立派な天職であり実はそれしか活かす道がない女性が結構多いのだ。掃除も天職なのである。


もしそういう仕事もないとしたら何をしているのか?ただ遊んで暮らすのかとなる。退職して何もしていないことは本当にかえって苦しいということがわかる。退職金をもらい、多額の年金をもらって遊び暮らせるからいいではないかとなるが本当に趣味などの世界で生きがいを見出せる人は少ないだろう。芸術家は別にして一般的にはそうではないか?人間に生きがいが必要である。生活は保証されても生きがいがなかったら淋しいものとはならないか?ただ毎日他人の給料をうらやみ仕事を金だけ計っていることは何か変ではないか?金からしか計算できないことが何か変なのである。仕事にはそれに見合った収入はあるべきである。でも仕事そのものにも生きがいがあるはずであり掃除婦にししても今日から病院の掃除はしなくていいですよ、家の掃除だけでいいですよとか言われたら淋しいものとなるだろう。病院の中で掃除することは患者にも眼をとめられ患者を励ましたりして患者とかかわる掃除婦なのである。つまり医者や看護師だけではない掃除婦も患者を助ける一員として共同で仕事しているのである。だから緊張感があり生きがいあるということになるのだ。

タグ:職業
posted by 老鶯 at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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