晩菊や故郷に暮らし落ちつかむ
晩菊や我が姉や父眠る墓
晩菊や我が墓の前悲しかな
裏切らる我が悲しみ深きかな誰に訴えむ墓に向かいぬ
つくづく人間は悲しい、人間の関係はすべて金になってしまった。裏切られたことが余りにも悲しい、信頼する人は自分には一人もいなかった。そこで姉とか父の墓に向かい信頼して愛情あったのは自分の家族だけだったと思い悲しくなった。これも世の無情、非情、無慈悲な世間なのだろう。結局訴えることもできない無情だった。本当に誰に訴えたらいいのだろ。神に訴えるのか?
しかし神は何かしてくれるのだろうか?神がどこに働くのかわからない、ただあきらめろというのが神の言葉なのだろう。世の無情に泣くこともなにか意味あることなのだろうか、多分そうだろう。世の中が人が無情であり非情だからこそ天国を求める、この世はそういうものでありとても天の国とはかけ離れている、だからこそ切実に天の国を求めるのだ。
晩菊となると故郷に落ち着き暮らしたい、年になればみんなそうである。でも故郷もみんないい人ではない、そんななかで落ち着き暮らせるのかともなる。でももうどこにいけないだろう。どこにいっても人間が落ち着いて心地よく暮らせるところはない、つまり人が問題なのだ。心地よく落ち着いて暮らせるそういう人に囲まれることはない、だからどこにいっても人の住むところ住みいいところなどないのである。それは故郷でも同じである。人はどこも変わりがない、そんないい人ばかりいるところなどいないのである。田舎の人の方が人が悪いというときそれも本当である。都会の人がみんな人が悪いとはならない、人自体どこでも同じなのだろう。だからどこに行ってもこの世に安住の場所はない、天の国にしか安住の場はないてのである。
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