
松岡大臣の自殺−何のための死なのか?
今回の松岡大臣の自殺でも問題になるのは・・・人はなんのために死ぬのか?・・・人は何のために生きるのか?・・・ということが問題になる。そこを問いつめれば今回の死の意味もわかってくる。ただ死が死というだけで美化され死者に鞭打たないとか死ねば仏様だ英霊だと崇めるのが日本的文化になるのが疑問なのだ。
まぁ、責任にもいろいろあるからね。
国民のほうに対する責任はみじんも果たしてないから、私のような庶民からみたら
単なる国賊だけど、所属する組織や主に対する責任は立派に果たしている。
そういう意味ではまさに侍。
何のための死かというと「組織を守るため、自民党を守るため、会社を守るため・・・・」自ら属す組織団体の忠誠のための死となることはよくあることである。大きな組織団体の一員として誰でもあるのだからその一員としてその組織を守るための死は何のための死というより人間の本能としてある防衛本能としてあるものかもしれない、先の戦争でも特攻隊でもそうした犠牲が強いられた、国のために犠牲としての死があったからだ。だから自民党にとっては生贄としての死であり組織防衛として犠牲となった死として利用することにもなる。死はどんな死でもなんらかの犠牲になるのだ。今回の死も明らかに犠牲的な死の一つであったことは確かである。その犠牲は自民党とか会社とかを守るものであり正義のための死ではない、正義を貫こうとすれば正義を明らかにする必要がある。何らかの不正がありそれが追求されたから組織防衛としての犠牲の死を選んだ。
死というだけで日本人はすべてを許し死者を美化し許しあげくのはては英霊にしてまで崇める。だから戦争を犯した人の責任は誰も問われない、みんな英霊になっているのだ。死者に対して柩が通るとうやうやしく礼をして死者を見送る。自民党にとっては犠牲となったのだから責める死者ではない、祭りあげるものとなる。これが国民全体にとってどういう死になるかというと不正は死によって不明になり闇に消え正義は明らかにされない死となる。これは自ら死んだというよりそうした組織や回りの圧力で死に追いやられた死でもある。「苦しいが死んでくれ、俺たちを守ってくれ、・・・・」と回りのものから死に追いやられた、あるいは闇の世界から刺殺者が送られたという説も否定はできない、何のための死かと考えると何かにっちもさっちも行かなくなり死に追いやられた死となる。死というのにもいろいろありそこで問題になるのは何のための死なのかということなのだ。だから死が犠牲であってもすべて美化されることは疑問なのである。
自民党は生贄としての死としてこれを祭り参議院に弔い合戦とかする目論見がある。でも今回の国民感情はそうはならないだろう。余りにもその死がそうした同情を得られない、巨大な闇の世界を残し闇におおわれている。その闇は余りにも深い、いづれにしろこの世は闇の主(サタン)が支配しているというのは変わらない、その闇の正体はいつまでも闇であり不明になる。巨大な組織団体自体が宗教団体でも何でもすべて闇をもっている、だから常に真実は明らかにされない、うやむやとなり闇に葬られる。これは日本だけではない、世界中どこでも同じである。その闇がなぜ作られるのか?それはやはり人間の深い欲望から作られる。様々な欲がからんで闇が作られる。事業でもやはり巨額な金が動くから様々な欲がからみ闇が生まれる。だから欲があるかぎり人間の闇はなくならないのだ。