白藤の消えて月いず墓所の前
白藤のここに咲きしと誰そしる今日も我がゆく墓所の前の道
この道のゆく人まれに苧環(おだまき)や月やさしく十字路にいず
白藤はいつしか消えた。ここに咲いていたのも気づかれないように消えた。その白藤とこの町中の墓所がなせがあっている。死者は語らない、騒々しく騒がない沈黙している。それで自分の性質にあっていたのだ。わずかに猫がここを通るくらいである。とにかく今や一万の町を行き来しているだけでつまらないといえばつまらない、しかしどうにもならない。ただ別に遠くに行かなくても美は存在する。発見していないだけである。その一つが白藤だった。ありとしもわからず咲いて消えてゆく白藤・・・・だからこそ白藤は心に残るともなる。
小さな町だととくに今街の中は閑散としているから十字路でも車は通るにしても夕方は通るが信号で待っているほど通らないのだ。奇妙だがこういうところに咲いている花は花として自分をそっと主張できる。これが雑踏の人ごみに咲いていたら花は目立たず忘れられる。第一都会の十字路だったら月自体がかすんでめだたない、人の熱気で自然の事物はかきけされてしまう。十字路にさえ月はやさしく感じられる。街でも規模がこれだけ小さいと自然が自ずと映えることになる。ただ経済的には大問題である。人が通らないことにはどうにもならない、生きてもいけないとなるからだ。
文学はカルタシス
http://www.musubu.sblo.jp/article/692950.html
2007年05月28日
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