2006年02月27日

猫柳(介護の日々)

故郷に看護の日々や猫柳

しっかりと猫柳手に婦人行く


今や看護の日々になってしまった。看護に向いている人と向いていない人がいるというのは確かだろう。どうしても看護は女性向きだけど看護士というのも一般的になったから男性でも看護はできるし必要なものだろう。認知症の看護は一番むずかしいことは間違いない、精神的な看護が大きな部分をしめているからだ。記憶できないから記憶を補ったり様々な日常で支障が起きることを補う必要があるからだ。人間の障害というと目が見えなくなるとか耳が聞こえなくなるとか顔が壊されるハンセンシ病とかある。しかしこれらは精神は正常に機能しているのだ。だから耳が聞こえなくなってもベ-トベンは運命を作曲できたのである。耳が聞こえなくなってこそできたという側面もあるのだ。ある機能が失っても別な機能が発達する、過敏になるということもある。認知症もだから現在の記憶は失うのだが感情的には豊かになるとか別な側面が過敏になることがありうる。今のところ軽度だからあらゆる機能が失ってはいない、わかることはわかるしむずかしい話も通じることがある。これだけ回復したのは掃除とか料理とか洗濯とか買い物とか日常的な作業をするようになったからである。それまでは毎日無益な探し物ばかりしていたからこれは全く生産的ではなかった。家事は立派な生産的労働なのである。だからこれをある程度できるようになったことは無駄な探し物をしないということは前からするとかなり回復したとはなる。ただ認知症は全部は回復しないしこれから進んでくるとどうなるかわからない、今のところはいろいろな日常的な仕事ができるようになったからそれなりに回復したとなる。

猫柳というとやはりあたたかさであり看護にはやさしさとか温かさが必要である。だから看護には女性の方が向いているのだ。男性でも男性的な闘争型より女性的なやさしさをもった男性が向いているのかもしれない、自分は女性的な面があるから看護に向いているのかもしれない、ただ今は軽度だからやれているのでありこれが重度になったら自分も意外と早くギブアップすることは間違いないし現実にそういう看護ができる家庭環境にはないから無理なのだ。
介護疲れで55歳の男性が80歳の母親を殺して自分も自殺したのは悲惨である。そういうことがこれからかなり起きてくる。介護地獄がやってくるのだ。特に認知症の介護は重度になったら絶望的に誰にでもなるし死んでくれとか殺したくなってしまう。事実自分も錯乱状態になったときそう思ったからである。

しっかりと猫柳手に婦人行く

俳句は短いからそもそも説明とか背景を知らないで理解できないものである。
この句だって何の意味も感じない人もいるだろう。しかしこれは私の一連の介護に関する文を読んでいればそれに関した特別な意味あるものと読める
認知症の患者の施設で働いている人が言うには自分に親切にしてくれる人は見分けるしその人の言うことは聞くというのである。意外と認知症の患者は人を見分けるのに敏感なのである。自分に親切にしてくれる人、自分のことを親身になって接してくれる人をわかる。それはごまかせない程わかるのだ。つまり親切にしてくれる猫柳を人にたとえるとその人を離さないと解釈することになる。ここまで普通は解釈しない、俳句は俳句だけで成立しない文学であることがこれでもわかるのである。

 21日午後8時20分ごろ、埼玉県和光市の無職女性(86)方で、女性
が布団の上に倒れ、同居の無職の二男(55)がベランダで首をつって
死んでいるのを、訪ねてきた長男(60)が見つけ、119番通報した。
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