死者への供養も愛がなければつづかない
●愛とは何なのか
愛とは何なのか、そもそもわかっている人は少ないと思う。キリストやお釈迦様が説いた愛は普通のものではない、非常に高度な愛であり慈悲であり凡夫には実行しがたいものとしてある。そして愛を愛をというとき愛にはいろいろあるのだ。まず恋愛は愛の内に全く入らない、それはエゴの愛であり宗教的にはどこでも否定されているのだ。肉欲も否定されている。愛とか慈悲はまた家族愛、親子の愛とかとも違う、万人を隣人を愛する愛である。だから宗教的愛は実行されているのを見ること自体知ること自体も世間の中ではありえないほどのものである。人を愛しなさいというとき愛にもいろいろあるから混同しているからである。恋人を愛す、親が子あ愛す親を愛す兄弟を愛すと恩になった人を愛す世話になった良くしてくれた人を愛すというのは普通にある。でも現実そのことすら世間では実行しがたいものとなっている。そしてそうした普通の人間的情を実践できない人は絶対にその上の宗教の説く愛とか慈悲など実践しようがないのだ。例えば誠実に生きろ嘘つくなとか教えられてもそれを実際の生活で実行することは本当にむずかしい。一見簡単なようなことでもモラルを実行をすることは世間を生きるなかではむずかしいのだ。そしてではカルト宗教団体などを見ればわかる、信仰しているのだからそこにいる人たちは愛や慈悲を実践する人たちなのかというと全くそうではない、そうした愛や慈悲を実践できる人は一人もいないのである。会員を増やすとか勢力を拡大化することには熱心でも愛とか慈悲などまるっきりないのである。
そもそも人間は普通の親子の愛とか兄弟愛とかそうした愛を実践することすらむずかしくなっている。昨今の高齢者の行方不明問題もそのことを物語っている。普通のモラルさえ実行できない、借金しては返さない人はやはり愛とか慈悲など実践できない、すでに正直でも誠実でもないからだ。「汝の敵を愛せよ」という時、口で言うのは簡単である。現実になると本当にむずかしい。実行不可能になってしまう。しかしそこに本当の愛があった。人間は良くしてもらった人にさえ恩になった人にさえ愛をもてないということがある。忘恩は世の常であるというのも真実である。ただ恩と義理など古いとなるがそれすら実行しないし実行することがむずかしいのだ。十万くらい貸していた人は本当に律儀な人だった。必ず感謝して返していたのである。金を借りて感謝して返している人はまれである。その人は姉が認知症になったときかわいそうだと話相手をしてくれたからやはりそういう恩と義理に厚い人はやはり情ある人だったし今ではまれなのだ。日本人自体すでにそうした恩と義理さえ感じない情のない人が多くなっている。日本人的良さが今やモラル的に喪失したのもそのためである。それを汝を苦しめた人を愛せというのはできないことなのである。愛を愛を気軽に言うことは簡単でも実際は家族や身近な世話になった人でも愛をもつことはむずかしいのだ。実行されていないのである。愛や慈悲を説いている人自体実行できないのが現実なのである。
●具体的な愛の例
複雑な事情ではあるが実家の祖母にあたる人はものすごく気の強い人でそれで母は実の母の代わりに育てられたのでひどいめにあった話を聞いた。弁当を作ってくれたのだがたまたま残して家にもってきたら「オレの作った弁当は食えないのか」と弁当をぶちまけられてこっぴどくしかられたという、相手はまだ子供なのにその話を聞いてひどいなと思った。母も実の母だったらあんなことしないのになとつくづく回想して言っていた。でもその継母となった女性にも功罪が有りすべてがひどい人ではなかった。それなりに尽くしたところもあった。それだけ気の強い人も晩年は養老院に入り死ぬ間際に目が悪くして盲目となった。そして気が弱くなってしまったのである。その時頼ったのが回りの人であり母しかいなかった。養老院でもそういう強い気性の人だからいじめていたりしていて嫌われていたのである。でも目も見えなくなり回りにも世話になるし最後はどうにもならなくなり母に頼った。母はそれでも進んではないにしろ行ってめんどうみた。そして最後は母にすまねえなと言って感謝して死んでいったのである。養老院で世話になったからと解剖に出すことになっていたので解剖されてのち私の家に骨はもたらされ実家の墓に納骨したのである。これもしかたなしにやったにしろ一つの愛だったのかもしれない、ひどい目にあったけれど最後は自分が弱くなったとき相手にはじめて感謝して死んでいった。強かったらこうはならなかった。
愛というのは強い人には通じないということがある。強い人には愛は必要ないし愛が何かもわからないのである。強い人にはもののあわれもわからないのである。俺は一回も病気したことがないような人は弱いということを経験しないから愛もわほからない、愛とは基本的には弱さへの愛だからである。強い人は元気なときは愛を必要としない、必要性も理解しない、でも遂に人生の中でその最後には年老いて誰でも弱さ自覚せざるを得ないのだ。そういうことをまざまざと見たから驚愕した。姉も強い人だったか認知症になり心も体もガタガタになってしまったからだ。最後はどんな強い人も弱さを露呈せざるをえないのである。人間は弱いものだということである。
●死者への供養も愛がなければつづかない
死者を愛すというとき生前でも愛がない人は死後も愛することはなかなかないだろう。生前と死後は継続してある。ただ生きているときと死んでしまったときの差は余りにも大きいのでとまどうのである。死んだ人を愛するというときもう形もない、返事もない、どこに愛する対象を求めていいかもわからない、墓だけが残っているから墓掃除したり墓参りすることが死者と通じることになるのか?それだけで死者を愛することになるのか?死者は何の返答もない、生きているときいろいろ利益を与えてくれたり具体的なものとしてあった。今や何もない、何の利益も与えてくれない、供養したからといって感謝しているのかどうかもわからない、だから虚しいともなる、でも介護しているときのように負担を与えないから気楽だともなる。死者は何の苦労も負担もかけないからだ。だからかえって死者を愛することは容易な感じもする。ただ手を合わせればいいからだ。でも死者を愛することはやはり愛が必要なのだろう。「汝の敵を愛せよ」というときこれは死者に対してもあてはまる。なかなか死者に対してもできないからである。例えば日本人の墓が戦争した場所にはない、骨はジャングルやアジアのそこかしこ放置さされているだけである。誰も敵であった日本人を弔う気持ちがないからである。むしろなんとか恨みをはらそうとする憎しみの念が延々と伝えられるだけだからである。
死んだんだから死んだ人はかわいそうだから弔うというのは日本的心性なのだろう。それは悪いことではない、それは汝の敵を愛せよということに通じているのかもしれない、現実に死者さえ憎んでいる人はいくらでもいる。親でも親族でも憎んでいる人はいる。それも実際に知っているからそれが悪いとも思えない、余りにもひどすぎた親というのがいる。親が仇のようになってしまっている不幸な親子関係もある。子供捨てるということも親にあるだ。自分もそういうことではないが迷惑かけられた兄弟がいてそのことで不満をもっていた。でも死んでしまったのだからそのことにこだわってもしょうがない、やはり死んだ人でも愛すべきだと供養している。死者でも愛せない人には供養もしないだろう。やはり死者にも愛がなければ供養はつづかない、返答は感謝もないにしろ供養も愛の行為だったのである。死者も暗黙の内にみているかもしれない、返事はないにしろいろいろ迷惑かけてすまなかったなとか思っているかもしれない、許してくれとか言っているかもしれない、そうなるとやはり供養せねばならないと思うのである。
死者とともに生きる
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/mourning.html
死は、あるいは喪失は、終焉を意味しない。
死や喪失を機に、自分のなかに息づき始める物語がある
確かに死ですべてが終わったわけではない、人間の物語は延々とつづく、家族の物語もつづく、死んだことにより死んだ人を冷静に見直すということや死者についていろいろ回想して考えること自体、死者は自分の中で生前とは違う新たなものとして息づく、生き始めているということもあったのである。
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