2010年09月06日

無縁社会になった原因(3)


無縁社会になった原因(3)

 
●無縁社会と有縁社会
 
NHKの高齢者の行方不明、無縁社会の続編を放送していた。高齢者の行方不明も家族のつながりうすれた結果として無縁化して行方不明になっても家族すら生きているのか死んでいるのかもわからないとか放置される。そして介護とかなると負担が大きいから小家族になっていると三人くらいの家族だと家族が崩壊してしまうのである。経済的にもその負担に耐えきれない、年金だけがたよりとなり親のめんどうをみていて親が死んだら収入がなくなって死んだの隠して年金をもらっていた。介護のために仕事をやめねばならないというのも悲劇なのだ。これが大家族だったら人手が多いから誰かがめんとをみるということがある。それで働くということが端(ハタ)を楽にするがハタラクだったということなのだ。それは身近で働く人を見ているからそうなった。人間は村とか狭い範囲で生きていたからそうなった。それ故に無縁社会などありえない、有縁社会の中で生きる他なかった。だから前にも書いたように商売するとき村の外部から来る人は特別に神社などで市場を開かせて無縁の場を作ったのである。そういう無縁の場所をつくらねばならない限りよそ者がはいりこめないということ自体いかに有縁の中でしか生きられないかを物語っていたのである。今でも田舎でも町に住むものと村(ざい)に住むものは違っている。村や部落では昔のような強固な連帯はないにしろやはり共同作業があったりして町に住むものとは違った共同がある。それがわずらしいものとなっているのが冠婚葬祭である。毎日新聞をみて死亡欄を見て悔やみに行かねばならないとなる。本当に一週間に一回くらい葬儀に出ているかもしれない、それほど田舎ではそうした冠婚葬祭費が馬鹿にならないのである。
 
●地縁、血縁から脱することは歴史の必然
 
神社などで無縁の場を作り商売させたように村社会では貨幣経済がすべてではない、労働の代価を労働で払うということもあったし共同作業は貨幣経済とは違う。しかし無縁社会になると貨幣経済がグロ-バルに地球の裏側まで広がってしまったから貨幣の力が大きくなり貨幣が神とまでなるような力をもつようになった。貨幣が万能の世界になってしまった。有縁社会でしか生きられない社会であったのが世界的な貨幣経済で物は流通しても人間はその貨幣の一単位のようになりマルクスの言う貨幣により疎外されるという現象がグロ-バル化したのである。そもそも減反政策でも何でもグロ-バル化経済の結果でありそれはとりもなおさず無縁化社会に通じていたのである。貨幣が万能化した世界であり人間も貨幣で売り買いできる労働も売り買いできるマルクスの言う人間疎外がおきた。ただその無縁化によって経済をグロ-バル化することによって今日の豊かさをがもたらされている。そうでなければこんなぜいたくはとてもできない、小さな村の単位の経済だったら豊になることはできなかったのである。狭い有縁社会から無縁社会になるのは必然的なものでもあった。人間の社会は地縁、血縁があるが経済の原理はそうしたものを破ることにより発展してきたからである。それを否定したらよそ者は入ってくるなとなり閉鎖的な鎖国状態であり発展はありえなかったのである。ただ経済というのは今やグロ-バル化に展開しているから制御できない怪物になってしまった。恐慌がまるで天災のように起こる、株価がどうなるのか誰もわからない、人間の手を離れて怪物化したから誰もわからない、天災のように経済もあるとき崩壊するという不安をもつようになった。働く-端を楽にするという範囲をはるかに越えて経済は動いている。経済は否応なく無縁の中で動いているのだ。根底にはそうした大きな歴史的流れがありそれを否定することはむずかしい。みんなが豊になるためにグロ-バル化したのだから否定しがたいわけである。
 
●過去は参考になっても戻ることはできない
 

日本でも江戸時代までは基本的には地縁、血縁社会だった。その基となる生産単位が家族経営とかであり家族が拡大化したようなものが経営体となっていたのである。そして養蚕でもその産業が土地に根ざしていたから土地と結びつき大家族的経営となっていた。それは賃金だけをもらう賃金労働者とも違った側面があった。墓をみると一つの墓の前にいくつも名前だけが書いて埋められている。それはこの家の家族だけではない使用人もかなりいた。使用人も家族の一員のようになり一緒に働いていたゆえに一つの家族のように埋められていたのである。そういう経営体では家族のようになり互いに協力するということがあった。だから働くが端を楽にするということになっていたのである。つまり現代は生活する範囲がグロ-バル化に拡大化しても
物と生活が分離している。そもそもバナナを収穫するにも大変な労働だったと報告している人がいたがバナナを食べている人はそれをみることはできないのである。金を出せば何でも魔法のように手に入るとなる。貨幣の力が神のようになってしまったのである。実際に最近毎日ではないにしろ一時間ばかりお手伝いさんに来て家のことを手伝ってもらったら便利だった。特に料理してもらった時は便利だった。昨日は近くでとれたとれたての野菜のテンプラを料理してもらった。テンプラは料理できないし他にも料理できないものがあり時々料理してもらったので助かった。つくづく労働も金で買える。金があれば逆に無縁化にはならない、なぜなら毎日一時間でも掃除料理をしてくれれば一応様子もみてくれるから孤立化しないのである。こういうことは認知症で家族の介護をしたとき親戚でもしてもらえなかったからこんなこともしてもらえるのかという発見があった。もっと裕福ならお手伝いさんを常時侍らせておくことができるのである。

 
今は近所でも親戚でもましてや遠い親戚など何の役にも立たない、自分の親戚でも東京に住んでいてこっちも介護とかで苦しんでいるのにただ金だけをいくらでも要求してくる。お前は金さえだしていればいんだという要求には誰も答えられない、そこには助け合うということがまるでないのだ。全く一方的に金だけを要求されるのである。そして東京でどんな暮らしをしているかもわからない、そんな人とは協力できない、介護とか福祉は相互的なものであり近くでないとできないということがあった。原町でも車で通いば手間なのでできないということがあったのだ。やはり近くでないと助け合うことが無理なことがあとつくづく思った。近くだということが困ったときは大きなメリットになっているのだ。ヘルパ-とかお手伝いさんなどが頼りにするときそのためには金を払わねばならない、かえって金が縁を結び孤立化を防ぐのである。それだけ貨幣経済社会になったとき昔のような有縁社会に戻ることには無理がある。実際は過去は常にノスタルジックに志向されやすいのである。大家族がいいとしても現実の社会でそれが再生できるかとなるとむずかしい。別な新しい共同性を構築するしかないのである。それがどういうものになるのかは日々の生活の中で模索するほかないのである。ヨ-ロッパでは家族に介護などさせるよりも税金で老人を世話するというとき日本のように地域とか家族がすでに介護とかの負担をする力をがなくなっている。だからこそ社会で負担するほかないから税金が高くなっている。日本では地域だとか家族がめんどうみるのが筋だとかいっても社会自体が変わったとき無理になっているのだ。そういうことは現実にそぐわなくなっているのだ。
 

  

無縁社会となった原因(2)
http://musubu.sblo.jp/article/35507267.html

フィリピンの大家族
http://watami2008.blogspot.com/2010/02/blog-post_03.html

無縁社会における自由・孤独”と“有縁
http://charm.at.webry.info/201002/article_5.html

posted by 老鶯 at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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