2010年08月22日

金持ちと貧乏人


金持ちと貧乏人

 
●金持ちは運命的なのか?(財産はFORTUNE)
 

お手伝いさんというと昔は女中であり家事が機械化されていないから掃除、洗濯、料理とかそれ自体が大きな仕事ととなっていた。ヨ-ロッパでも「洗濯女」という商売が成り立っていたから洗濯は一仕事であり洗濯専用の仕事があったのである。洗濯は主に川でしていた。だからセ-ヌ川で大勢の女性が選択している絵が残っている。もともと人間の歴史が始まって以来、召使とか手伝いする人は存在した。人間の歴史をマルクスが階級制から解きあかしたのもそれだけ人間の歴史はすでに上にたつものと下で働くものに別れていたのである。その階級制の起源はやはり財も持つものと持たざるものに必ず別れることなのだ。なぜ財を持つものと持たざるものに別れるのかそこにはいろいろな要因がある。技術的な要因もある。一早く先進の技術をとり入れた国は豊になる。そういう大きな側面からの考察ではなく個々の家でも豊かな家、財を築く家と築けない家がある。そもそもなぜこの世には貧乏な家と金持ちの家があるのだろうか?
その疑問も実際は解けていない、金持ちの家の人はなぜ自分は金持ちなのだろうかなどと考えない、貧乏な人はなぜ自分は貧乏なのかと絶えず考えている。そもそもなぜその家が財を築き豊になっているのか?それにはそれなりの理由があるだろう。ただ幸運だけでそうなったのか?やはりその家の積み重ねられた努力もあった。

 
ただ昔から財はfortune(運命)だから運が作用しているというのも確かである。いくら真面目に努力しても財を築けない人はいくらでもいる。努力しなくても運で財がある時入ってくることがある。道路工事や公共事業の住宅工事でこの辺では家など建てる金がなかった人が土地も与えられ家が建てられた。何千万という金が市からもらえたからである。これは運というほかない、他でも火力発電所ができたとき漁業権で億の金をもらったとかで近くの呉服屋が高価な着物を売れたとかある。大きな金は必ずしも努力しても入ってこない、親が死んで財産相続で大金が入ったりと運が良く大金が入るのが多い。その人の努力とは関係ないのである。なぜ金持ちと貧乏人がいるのか?その疑問は解けていないからインドではまさに運命だとなり前世の宿縁だとなりカ-スト制が生まれたのである。つまり洗濯する職業の家は代々洗濯を仕事として他に仕事を持てないとまでなっている。それは運命だから受け入れざるをえないとなる。そういう人たちは金持階級の暮らしを羨む時、前世の宿縁であり運命だからあきらめるほかないと納得する。もしそれに納得しないなら中国やロシアやその他の共産主義国家のように革命を金持ち階級、資本家を倒して財を奪いとなる。
 
●成功しなかったマルクスの階級制の否定
 
なぜこのこの世に金持ちと貧乏人がいるのか?その疑問は解けていない、それを運命論的なものとして受け入れのを拒否して階級制を打破して金持ちも貧乏人もない理想国家を作ろうとしたのがソビエト連邦であり中国であった。しかしその試みは失敗した。カンボジアなどでもかえって何百万人もが粛清されたことでもその試みは失敗したのである。中国では経済発展が著しく豊になったが貧富の差は日本では考えられないものになっている。その差があまりにも大きすぎるのである。平等を目指した共産革命がこれだけの貧富の差を生み出したことが皮肉である。共産党幹部は大金持ちになりまだまだ膨大な貧民が中国にいる。共産革命がこれだけの貧富の差を作り出していることでもわかるようにいかに貧富の差を解消することがむずかしいかわかる。だから中国では金持ちになるものは先に金持ちになりあとにその金持ちにつづけとなった。その思想は的を得ているのだ。誰もが一気に金持ちに離れない、一部のものが金持ちになりつづいてみんなが金持ちになって行く。その方法が正しい方法であり金持ちを倒してその財を奪うというやり方はまちがっていたのである。
 
相馬地方でも飢饉で人口が3分の一になったとき越中などから移民を募集した。その移民は最初は草分けというその土地の旧家の下で働いた。最初は悪条件の下で働かされたが徐々にその努力が実り豊になって土地に根を下ろすようになった。こういうやりかたが豊になる方法であり最初から貧富の差があるからと言って財産あるものを否定して奪って豊になれというのはまちがっている。財産は資産はその家の代々の努力によって築かれた場合であるのが普通である。幸運だけでは財産は築けないのだ。一代で財産を築くのは無理だろう。何代も家が続けばどんな貧しい家でも家を買ったりと財産をもてるのである。
 
●不遇な人、貧乏人は不満を言っても解決にならない
 
この世には不遇な人や貧乏な人はいくらでもいるし人間の歴史が始まって以来そういう問題は生じていた。それでマルクスの階級制の否定の歴史理論が生まれた。でもそれは実際に社会に適応したとき失敗した理由はそれが実際の社会を生きるものにとって不具合であり適さないからそうなったのである。豊になるにはまず相馬に移民した人のように草分けの旧家の下で地道に働く他なかった。それはヨ-ロッパでも同じである。パリの革命のように一気に貴族階級を倒してしまい、貴族を抹殺してしまいとなった結果、悲惨な殺戮の世界になってしまった。それでみんなが金持ちになれるわけではなかった。そういう革命は無理があり社会的に大混乱をもたらす、一部に今でも官僚の天下りとか批判すべきものがある。それは王政社会にもあった。
 
ただでは貴族を金持ち階級を否定して抹殺してみんな金持ちになれるかとなるとそうはならなかったのである。個々の問題としても不遇な人がいる。なぜそんなに不遇の星の下に生まれたのかと思う人もいる。ではその不遇な人が恵まれた人を羨みその不遇が解決するのかとなるとしない、むしろその不遇を運命的なものとしてとらえ金持ちの人、恵まれた人を羨むだけではなく地道に努力していればその人もやがて財を築くのである。不遇な人は貧乏な人は他者を羨みその不遇をいくら嘆いても解決しないのである。かえって悪い方向に向かってしまうのだ。不遇でありさらに不遇にしてしまうのである。そういう人はその原因をその運命に社会の不平等とか外部に求めていることが多いのである。確かにそういう側面はあったとしてもやはり自分自身にも不遇を産む原因を作っていることが見逃されているのだ。個々によって事情が違うにしろ文句ばかり不満ばかり他者に社会にぶつけても解決にならないのだ。お前は恵まれたからそんな呑気なことを言っていられるのだというのも一理ある。それは否定しない、でも不遇だった人がどうしてさらに不運を招いたのかは不遇の星の下に生まれたからではない、その人がさらに不運を招きよせたのである。
 
●お手伝いさん召使の仕事
 
台所に菊の香満ちる手伝う女(ひと)
 
そもそも金持ちでないからお手伝いさんとか召使がどういう仕事なのか庶民では知る人は少ない、たまたまお手伝いさんというのを家でわずかの時間でも働いてもらってこういう仕事もあるのかと思った。なかなか仕事に対して理解をすることをむずかしい。仕事の苦労はわかりにくいのだ。よそからみていれば重労働でもそれを見ている人は感じないのである。そこに人間の弱点がある。他人が苦しんでいてもその苦しみはわかりにくいのだ。だから傍観的になってしまうのだ。でも一度介護とか認知症の介護とかしてみれば大変だなと身をもって経験するから同情できるようになる。それまでは人の仕事の苦労はわからないのである。ただ昔なら働くが(端を楽にする)からきていたように身近で働く姿を見ていたから理解した。今は身近で子供でも働く姿を見ていないから余計にわかりにくいのだ。お手伝いさん、召使はその家と深くかかわる。その家の一員のようにまでなってしまう。住み込みになればそうである。仏壇に菊の花を捧げる時、その菊の花が台所に満ちてくる。そのことはその家の先祖とも深くかかわっていることなのだ。
ともかく人類の仕事で昔からお手伝いさん召使の仕事はあったし家事が機械化されないとき女性の仕事としても男性でもそうなっていた。それだけ働く場としてあったのである。武士の家でも相当数の家来をかかえておりその中には女中や召使も多かった。それだけ家事が大きな仕事だったのである。戦前までも女中の仕事の需要があった。母が東京に出て女中になった。女中が嫌だったかというと嫌とは言っていない、住み込みで食事も出されるし何より給料もらえるから良かったと言っている。女中は結構当時ではいい仕事だったし需要があった。だから女中とかお手伝いさんは卑しい仕事とはならない、その家と深くかかわる工場とか会社とかで働くのとはまた違ったものなのである。
ただ今のお手伝いさんはまた役割的には昔と違っている。介護関係でヘルパ-などが家に入ってくるとき庶民でも家の中で他人に働いてもらうことがどういうことなのかみんな考えるようになるのである。このお手伝いさんにしても女中にしてもその家で仕事するとき身の不遇や不満ばかり言っていたら勤まらないだろう。むしろその家に忠実に仕えて富を分けてもらうとか富にあづかるとかしようとするなら勤まる。不遇、不満ばかり言っていたらどんな仕事も勤まらない、そして地道に努力していれば報いられる時がくるだろう。
そこにfortune(運、財産)も味方するだろう。それを金持ちを否定してその財を奪って豊になるのが豊になる道だというのは無理があり失敗する。財産はfortuneだとしても運だけでは財産は得られない、確かに生まれつき努力しなくても大金持ちの家に生まれる人はいる。それこそ運なのだけどその財を他者のために運用しないものはその財も消失しやすい、運命的なものが財でもその運用は勝手にしていいものではない、そもそも財そのものが共有的なものであり個人のものではないからである。財はとても一個人の努力ではできない、みんなの協力がなければできない、大金持ちがいたとしてもそれはみんな努力してくれた結果なのである。一個人でお金持ちになることはありえないのである。自分のことを言えば自分は別に金持ちでもないしお手伝いさん雇えるような金もない、ただちょっとだけお手伝いさんに家で仕事してもらったのでその感じたことを書いたのである。現実今や介護などで自分自身がここ5年くらいは今や家のお手伝いさんであり給仕である。だから金持ちの家とは全く違うのであることを考慮してください。
posted by 老鶯 at 12:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
この記事へのコメント
相手にも因りけりですが…
「武士は食わねど高楊枝」
悪魔には媚びたくありませんね。真心と悪質な打算の境界線の見極めは難しい。
生きる為の糧があるだけで幸福かと思います。
いずれにせよ、早くお嫁にも行きます。
Posted by たまもとあゆみ at 2010年08月22日 12:40
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