2007年05月16日

大阪(城)の桜

大阪の桜

大坂城散る花しきり夕日かな

大坂城落下をいそぐ花あまた

なお尽きじ難波の夢や花の散る

大坂城落下のなかに吾も交じる

一陣の風に吹き散る花やさらに大坂城内花散りやまぬ

侍の町を歩かず商人の声にぎやかに難波の春かな


大坂城に行った時はちょうど桜が散るときだった。次から次と人が広い城門を入ってゆく、花がはらはらとちり夕陽が難波の街に沈んでゆく、大坂城は実際はもっと広かったから当時とすれば凄い見物だった。本当に難攻不落の城だったのだ。だから家康も攻めるのに難儀したのだ。この一大の栄華も難波の夢とはかなく消えてしまった。

大阪には侍の町ではないから堅苦しい町ではないというのはそういえばそうだと他のプログを読んで気づいた。東北の田舎だとこうした都会のことがわかりにくいのだ。町を歩いても侍を見かけないというのは当たり前だが大阪というとやはり侍がいると思っていた。これも過去はなにかしらみんな錯覚している。江戸は侍屋敷が多いから侍の町だというのはわかっている。大阪や京都は町人、町衆や商人の街として発展した文化を作った。この歴史も東北の片田舎ではわかりにくい、東北では豪商というのはまれでありそういう気前のいいものがなかった。それだけ人間的活気にともしいし江戸時代でも「奥の細道」だったのである。卯の花をかざしに関の晴着かな(芭蕉) −この句に象徴されているように江戸時代でもみちのくはこういう状態だったのである。ただ大阪とは北前船で日本海と青森とか経済で交流が活発だったのである。大阪、京都とは経済的に深く結びついていた。だから大阪などの屋号が多いのである。

江戸は参勤交代で侍の交流だった。侍が消費する一大消費地であり大阪や京都の生産や経済の交流の場所とは違っていた。政治都市というと北京がそうであり上海は大阪になる。ワシントンも政治都市でありニュ−ヨ−クは経済都市である。世界的に見ても都市にはいろいろなものがある。京都は手工業の街でもあるが東本願寺があり僧侶の街でもあった。だから今でも坊主を嫌い奈良の方が仏教でも古く素朴でいいというのも地元の人の見方だった。都市にも歴史があり個性が作られる。

雨しとと夜桜静か京の宿 

塔古く雀の群れて蓮華かな 


kyoyado1.jpg

合成写真でも元の状態がわからなくなれば著作権にふれないのではないか?
合成したのはくらべてみてもほとんどわからないからだ。???


塔に雀が群れているというのもあまり東北ではない、塔自体が少ないからだ。蓮華が咲いていたのは奈良の素朴さになる。まだ回りに田んぼがあるからだ。

蕪村は京都と大阪という都市の住人でありその生を謳歌した。一茶は田舎から江戸に出て丁稚もしていたので江戸に対してひにくれた見方の俳句ともなった。都会では貧乏人はいい生活をできないからだ。芭蕉は江戸から離脱して「奥の細道」へ向かった、脱俗の詩人だった。今でも都会がいいと都会の住人になるものもいるし一茶のように出稼ぎでやむなく都会に出る人もいるし脱都会を目指す人もいる。今はやはり脱都会派が多くなっている一面経済的にはまた都会集中になっている。東北には都会の文化が欠けている。歴史的にも貧しいので都会の文化が育たなかったのだ。大阪では庶民レベルでも豊かな生活をした人々がいた。その辺が心にも影響している。東北の都会というと平泉である。ここが一番都会文化をはぐくんだ所なのだ。ただこれも継続的発展はなく途切れてしまったのである。

春の虹断片に消ゆ平泉

平泉は春としても断片であり夏への大きな虹として結ばなかったのだ。三代の栄華で終わったが京都は千年の都としてつづいたのである。

城の詩
http://www.musubu.jp/shiropoem.htm







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