他のプログの今日の一句一首の感想
一句一首の感想を書いている人がいた。これでこんな句があったのかと発見するものがあったのでここでそれについて自分なりの感想をまた書いた。人によって句の見方は違ってくることに批評の面白さがあるからだ。
能登麦秋女が運ぶ水美し 細見綾子
地域的なものと季節と女性的な感性が融合して一句ができた。水はやはり女性的なものなのだ。水ぬるむころ女の渡し守−蕪村・・・・これもそれと似た俳句なのだろう。
人入つて門のこりたる暮春かな 芝 不器男
これもなんでもない風景なのだが人が入ってゆくということでそのあとの余韻で春らしい気分を表現したのだろう。
春は人の出入りがあるからだ。でも表現としては門残りたるというのは写生ではない、門のこりたるでは何か廃墟に残っている門のように見えないか?つまり何か作られすぎていないかと言うことなのだ。でもそれなりに面白い視点である。
雨の花野来しが母屋に長居せり 響也
この句を碧梧桐は新傾向の俳句だという。母屋というのが何かなつかしい、これは古い農家では今でも生きている。今ちょっと母屋に行ってくるよとかチャットで書いた人があったからだ。長居せりというのが何かのんびりした時代の雰囲気を伝えている。母屋があれば隠居屋もあったから大家族時代の暮らしが偲ばれる。今は核家族だから家族は団地とかマンションとか箱のなかに住んでいるようでゆとりがないのだ。暮らしはやはり自然と大地とむすびつくとき人間らしい暮らしができるのだ。
榛名山大霞して真昼かな 村上鬼城
この句は大きな句ではないか?大きな山が霞の中に隠れる。大きな山を見ているから作れた。阿武隈には大きな高い山がないからだめなのだ。
街角の風を売るなり風車 三好達治
これは街にまだ自然が生きていた時代の風景である。金魚売りとかもいた時代である。
金魚売り真昼の影濃く路地の裏 老鶯
ギンギョイ−キンギョ−ギンギョイ−キンギョ−・・・・暑い盛りに金魚売りが桶を天秤棒で担いでやってくる。それがしなるように肩にかかり重いのだ。その影が路上に濃く日盛りの一日がすぎてゆく、そういう光景があったということはなになのか?自然のなかで人間が暮らし生きていた姿があった。女性の行商の魚売りが今は車で来るがそこでも必ずよるからこの魚はこうして料理するとうまいですよとか話しになる。また半年くらい来なかったのはなぜなのかと思ったら病気で手術したこともわかった。そこには人間としてのやりとりがあったのだ。それはただ今は物を便利に何でも買えるのだが人間的なコミニケ−ションはなくなったのである。働いている人が見えない、工場で働いていても見えない、なんかロボットでも働いて物が生産されてくる感じなのだ。そこがなんとも物足りない、やはり今はあらゆるところで人間がいて人間が主人公になっていないからである。
俳句は人生の呟き
http://blog.so-net.ne.jp/bekira/archive/200705
ここから拾い読みした。インタ−ネットでは誰かが感想を書いた俳句でも短歌でも本でもそういうものを読むことが多くなる。なぜなら書きやすいからそうなる。短文でもちょっとした感想でも書けるからだ。そのなかにはなるほどと感心するものがある。インタ−ネットはもともと短文表現の世界だった。これはまたその他人が書いた感想の感想になる。自分の一句一首ばかりつづけてきたが疲れた面もあるのでここで最近また他の人の文を読んでいる。またプログなどから拾って感想の感想を書いてみよう。
2007年05月15日
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