2010年07月26日

カルト宗教団体はなぜ糾弾されないのか?


カルト宗教団体はなぜ糾弾されないのか?

 
●私憤と公憤
 
すべての公憤は私憤に基づきます
 

私憤と公憤
http://www.shorinji.org/i/kokoro/20030612.htm


私憤の内容が、1.「公共的な善」と結びつくこと、2.その「公共的な善」の中でも、共同体成員にとってより重要な内容である、ということが必要条件だということです
http://d.hatena.ne.jp/ziggy0713/20090825/1251200334

 
私憤と公憤があるが不正を受けること様々な被害者になることは私憤でありその私憤が公憤に転化するとき社会的な共同の問題として共有される。自分が宗教団体を批判したのは最初は私憤であった。社会的に宗教でもない確実に政治団体化している創価が社会に容認されているのか未だにわからない、宗教の社会的勢力拡大化であり宗教でもって権力を掌握することを目的することは法律の政教分離に違反する。もちろん政教分離すら否定できる。でも歴史的に宗教が政治にかかわることで甚大な被害を出したからこそこの法律ができた。だから宗教と政治は分離すべきだと法律ができた。私自身は宗教を追求してきたのであり政治を追求したわけではない、でも創価では毎日の活動は政治に直結していた。一人会員にすることは一票を得ることでありそれ以外何もない、そしてすべての活動は祈ることも何でも権力掌握するための活動に結びついているのだ。こんなことが社会で容認されていいのかというこれが公共的善に通じるのかという疑問である。でも民主主義の社会では数が多いことが善である。多数決が善である。投票で決まるとしたらすべてか数が優先する。数の合意により決まるからそれがいかなるものであれ悪法であれ数の力ですべてが決まる。現実にナチス政権は最初は暴力で政権を勝ち取ろうとした。その手段を変更して民主主義の選挙で政権をとることに方向転換した。そして政権をとったのだ。だからどんな政党でも宗教と一体化した政党でも政権は数の力でとることができるのだ。
 
●政教分離の難しさ
 
では民主主義には法律があり法律が優先する場合がある。時々検察が政治に介入してくる。政治より検察が権力上は上にあることを示すことがある。でもこの検察も極めて政治的党派的であり公正な判断をするわけではない、一見正義のように見えてもそうではない、官僚主義であり必ずアメリカ側について判断するのが検察だった。これはアメリカに支配されたときからそういう構造になっていたのである。田中首相でも民主党の小沢でも中国よりになるとき検察の力で歯止めされる。汚職事件が金権問題もアメリカ側で操作されるのである。極めて政治的意図の上に判断されるのだ。創価にしてももともと勝共連合としてアメリカ側の意図から共産主義の防波堤として作られたとかあり裏で操られているというのも真実なのだろう。つまり純粋に宗教的なものはまれであり団体化しているものは政治的意図が働いているのだ。そもそも内村鑑三が言っているように外国から入ってきた宣教師が指導した日本のキリスト教は財政もアメリカに援助されているからアメリカの意図により操作される。朝鮮系のキリスト教も朝鮮系の意図により操作される、極めて政治的なものであり宗教も政治的意図が露骨なのである。日本にキリスト教が入ってきたとき背後のスペインとかに日本が支配されると秀吉や家康が恐怖したのはそのためである。それが悲劇の原因だったのである。宗教と政治を分離することはそれだけ困難を極めているのだ。
 
●カルト宗教団体の被害者の私憤は無視される
 
日本でなぜこれほど世界的にもなぜカルト宗教団体は増えたのか?失われた共同体の絆を宗教団体に求める人もあり様々な困難で援助がないのでそういう団体に入る人もいる。創価などは団地の宗教と言われたように地方から都会に出てきた人が宗教で結びつくということがあったのかもしれない、それはそれなりに一つの社会的役割があったのかもしれない、でも本質的にカルトであり宗教とは関係なかった。カルト宗教団体の見極め方は政治的意図が働いている。背後に政治の力が働いている。幸福実現党などもやはり政治団体化したからそうだった。政治と結びつけば確実に権力と結びつくのだ。権力と結びつくことは政治権力と結びつくことで会員にご利益を配分することができる、具体的にご利益を与えることができるために運動するのである。政教分離の法律はヨ-ロッパのカトリックの政治化した悲惨な歴史の反省から生まれたのである。その歴史の重みが政教分離の法律を作った。日本でも天皇制による戦争の反省から政教分離の法律を作ったのである。
 
カルト宗教団体に被害を受けた・・・そのことを延々と書いている、恨みが尽きないことはわかる。それは私憤でありでもこれは公憤に転化してもいいものである。カルト宗教団体は社会的に害悪を及ぼすものだとして糾弾されるべきものであるとなってもいいはずである。でもカルト宗教団体の被害者は無視される。政治的に創価でも真光でも立正佼成会でもキリスト教関係の団体でも政治の票田になっていて政治では糾弾されないのである。だから真光に被害にあった一私人のことなど誰も問題にしない、政治家にとってもマスコミにとっても何の利益もないからである。聖教新聞でも刷って新聞社は金をもらっていた方がいいのである。これは政治家とて同じである。一私人がいくら騒いでも政治家の政治力が数で決まる、背後の権力で決まるからそうなる。私憤が公憤となり社会的に糾弾されることがあるが宗教の場合はないのである。巨大な権力をもっている宗教団体が悪いとはならないのである。何でも巨大化して権力化すると何が悪いことが善なのか判断できなくなる。権力は暴走する。絶対的権力が絶対的に腐敗するというのはそのためだろう。戦争の甚大な被害もそのために起こった。誰も止めることはもはやできない、いくら警告しても無視されるだけである。
posted by 老鶯 at 09:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
全く、同感です。一人一人の声が積もり積もれ大きくなります。真(善)が偽(悪)に隠れてしまう世の中にはなって欲しくありません。
今日は兄の一年忌でした。無事に終える事ができ安堵しております。政権は変わっても世の中の情勢は混沌としていますが、月日の流れは早いものです。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月26日 22:33
在日韓国人、カルト教団、医者が組んだ組織ほど極悪非道なものはない。危険回避。
Posted by 通報 at 2010年07月28日 05:56
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