2010年07月02日

桑の木陰にて(ベ-シックインカムの思想の検討)


桑の木陰にて(ベ-シックインカムの思想の検討)


甘美かな桑の木陰に実を食す

 
いつも休んでいた近くの木陰は桑の木だった。桑の実がなっていたからだ。桑の木はこんなに大きいのかと思った。実際に桑の木は大きくなる。大木にもなる。
 

高さ五丈の、盛り上がったその頂は、あたかも天子の乗る馬車の天蓋のように立派だ。
樹齢は、もうどのくらいになるのだろうか、どれだけ多くの人々の暮らしを見てきたのだろう。この巨木は、平凡な人々が住む平凡なこの村の、ただ一つの名物だった。旅人たちに木陰を与え、子供たちには良い遊び場となってくれる憩いの場だった。
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/san1.htm

 
桑の葉は蚕をしていた時代は裏の畑は桑の葉でおおわれていた。どこでも桑の葉だらけだった。その実を食べていた。でもこのような大きな木の桑の木があると思わなかった。これだけの木だと相当な実がなる。ただ黒ずんでいた、でもうまかった。こうして無料で食べられる自然の木の実の味はなんともいえない、それも木陰で食べているとエデンの園にいる感覚になる。労せずして木陰に休み甘い木の実を食べる、それは人の手から渡されたものではない、自然から神からじかにあたえられたものだから甘美なのだ。そうじゃないか、この世にいろいろなうまいものがあるけどかならずこれを作るのにどれほど苦労したか、手をかけたか、この食べ物にはそうした苦労の賜物だとして渡される、だからそれ相応の金は払ってもらおうとかありがたくいただけとかなっている。お前みたない遊んでいるような怠け者は食べる資格なんかないんだよとか食料は額に汗して得るものであり遊んでいる怠け者には与えられないとなる。今ではさらに遠い外国からも運ばれるからさらにどれだけ苦労して運ばれてきたかを知れとか無償でえられるものではない、確かにそうした労働の恩恵で得られたからこそその対価が要求されているのである。
 
でもエデンの園では食料は労せずして無償で得られていた。労働は呪いとして人間に与えられた。罪の結果として与えられた。動物は鳥でも労せずして得ている。もちろん餌を毎日とるのも命懸けだとか大変だとかあるが人の労働によって与えられるものではない、自然から神からじかに与えられるのである。そこが根本的に人間社会と違っているのだ。人間は本当にこんなに労働が必要なのだろうか?何を言っているんだ、毎日働かずして食べていけるのか?そんな天国がどこにあるというのだ。例えばベ-シックインカムなどを民主党などが検討するというのもやはり豊になればそういうものも是認されてくる。そんなことしたら誰も働かなくなる、嫌な仕事をする人もいなくなる・・・・・とか夢物語として見なされるのも確かである。人間そんな甘いものじゃないとかなる。働かざる食うべからずでもある。でも労働の理想は自主的に働きたいものが働くことなのである。現実そういう人はいる。大工とか庭作りとか技術者は自分の腕を磨き働きたい、仕事をしたいし、自分が仕事をしていること自体楽しそうにしている。確かに苦しい面はあるがやはり何かを作り上げることに喜びを見出しているのだ。
 

こういうことは人間にはある、だからworkは作品となっているのだ。職人でも単に賃労働ではない、職人になると自分なりの作品を仕上げたいということがあるのだ。ベ-シックインカムになっても誰も働かないとはならないのだ。自分も何の収入もなくてもいろいろ書いてきたのはwork-作品を仕上げることに生きがいを持つからである。人間は誰しも生きがいが必要である。だから働く人がいなくなるということはない、ただ無駄な仕事はしなくなることはありえる、働いて人がいやいや働いていたら現代のように鬱病の時代になっている。好きで生きがいで働いていればそうならないのだ。現実に人間は働かないと退屈で体をもてあます人もいる。つくづくあれだけ頑丈な体をもっていて何もしないとなるとその体も活かされないからかえってそれなりの肉体労働も必要なのだと思う。そういう体力をもっている人はそういう仕事が必要なのである。変な話だけど体力のあるひとがいてその肉体をもてあましているような人もいる。そういう人にはそれなりの仕事を与える必要がある。
人間は働かなくてもいいから毎日なまけて何もしないでいられるか?実際は働かずにいられないのが人間なのである。

 
そんなもの夢物語だ、この不景気の時勢に馬鹿げたことをと言うのもわかる。でも理想的にはそうだし現実的にそういうことがあてはまっている人もいる。力仕事もしたいという人もいる。力ある人は力を出したいということがあるのだ。なぜならその時俺は力あるんだと自分を誇ることもできるからだ。何かしら自分ができるんだということを示したい人はいくらでもいる。だからベ-シックインカムでも誰も働かなくなるということはないのだ。それだけは一面確かなのである。
お手伝いさんとか職場でも確かに金のために働いているのは確かである。でもあの家で働くのは楽しいとか職場でみんなで働くのは楽しい生きがいだという人も普通にいる。家でぶらぶらして食べることができても楽しくないということもある。自分の家の状態は今は別にお手伝いさんはなくてもすむ。簡単な掃除と家事だから自分でも今はできるのだ。そうでないときは介護のときはあった。でもそういうときは援助はほとんどなかった。今は別にお手伝いさんとかヘルパ-とかなくても自分でそれなりにやっていける、つまり働いてもらう方にしてもそれほどその労働は必要とは今はなっていない、とすると私はあなたのために働いて尽くしている、だからそれ相応の対価を収入を与える必要があるとはならない。でも相手はそう思わない、金がない場合は余計にそうである。ベ-シックインカムになればあそこの家では職場では働きたくないから働かないということが多くなる。そうすると働かせる方でかえって働く場所の魅力を作らねばならなくなる。これは今までの労働観とは相当違ったものとなるのだ。いやいやながら働かされているのが現状であり今度は逆に職場に魅力がないなら人が来ないとなる。そういうことがベ-シックインカムで起こってくるかもしれない、ただこれは本当に未知であり夢物語にもなるからどういう社会になるか検討つかないのである。
何故なら労働は労苦として人間に与えられたものとしてこれまで継続された固定観念があるからだ。その労働観を根本的に変えること自体がむずかしいのである。ベ-シックインカムという思想自体なじみのないものだから夢物語とされるのである。思想として深く検討されていないのだ。ベ-シックインカムの思想の由来は聖書のエデンの園からはじまっていたのである。エデンの園では食料は無料で得られていたからである。
 

エデンの園の木の実((詩)
http://musubu.sblo.jp/article/39405512.html

posted by 老鶯 at 19:06| Comment(1) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
この記事へのコメント
汗水流したり、労苦を味わって働かなくても、収入のある人達は羨ましいようで恐ろしいですね。真光サンも甘い言葉で手をかざしただけで5000円。占いで5000円、入信に30万円(実際は1万7000円)。
人の職場や研修先にまで付きまとって¥×××。人に宛てたメールを入手し、みんなに回覧するのに¥×××、自分の言いたい事を人に言わせて¥×××、ストーカーも商売化しているのでしょう(笑)疲れなくなりました。
無言電話して¥×××。今の時代は、社会的地位に媚びれば新種の職種も成立できるようですよ。

だから、いかがわしいネット荒らしや、悪質な悪知恵を働かせ、労働せずに収入のある(?)フリーターもどきが続出するのかもしれません


私は現実的な事に集中します。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月02日 21:31
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